慣れと認識

昨年の十二月、東京は荻窪の古本屋巡りにて購入した、島尾敏雄吉田満の対談『特攻体験と戦後』を読みました。書店にて目にした瞬間、「これを読まなければいけない」と思いました。

少しでも多角的に読みたいと、まず手元にある阿川弘之の『雲の墓標』を読み直しました。学生のときに読んで以来ですから、約四半世紀ぶりです。正直に書きます。その当時、読み終えて心が震えるような感動もなく、その後に読んだ『山本五十六』『米内光政』『井上成美』の“海軍提督三部作”の方が読み応えがあり、印象深いものでした。それは、いまになって思うに、わたしが太平洋戦争を“歴史”と捉え、それらを歴史小説と認識していたからでしょう。

しかし、今回あらためて『雲の墓標』を、あらかじめ承知している結末に向かって読み進めながら、やりきれない想いでいっぱいになりました。

京都大学万葉集の勉強をしていた若者が、学徒兵として海軍に入り、少しずつ少しずつ、死に向かっていく自分を受け入れていきます。それは本人からすれば諦観と覚悟と思えるものでしょうが、わたしには変えられない現状を受け入れる人間の本能のようなものと思えて仕方がありませんでした。

人間に備わった生存のために最も重要な能力、それは“慣れ”です。慣れることによってストレスを軽減し、状況に適応することで生存する可能性を高めるのです。

世界が個人の認識の結果と考えるなら、他人を変えることは出来ないものであり、自分が変わることで世界が変わるという言説もありでしょう。しかし、人間は一人では生きられず、他人と社会を形成し、その一員としてのみ人間として、あるいは個人として存在し得ます。自分の認識を変えたところで、世界は変わるかもしれませんが、社会は寸毫も変わりません。

慣れと認識。この二つの間に厳しく一線を引くことが出来る人がどれだけいるでしょう。

『特攻体験と戦後』で、その特異な経験を語る二人の言葉は優しく、声は静かです。声高に熱く、その愚行を批判、糾弾してくれればわかりやすい物語になりますが、決してそうはなりません。

冷静に考えれば、物事の道理として、特攻によって不利な戦局をひっくり返せるわけもなく、ただ人の命を消費していくだけだとわかります。では、何故その無意味な行為が立案され、命令として受け入れられたのでしょうか。

非日常も、日常との対比において非日常なのであり、長く続けば人は慣れるもの、非日常も日常と認識されます。

船戸与一は、「後世の高みに立って、俯瞰した上でおまえの罪だというのは簡単だけど、時代感情や気分を無視して人が生きられるわけではない。後から貼り付けるレッテルなんて、ほとんど意味がない」と書きました。

歴史に学ぶとは、「戦国武将の〇〇に学ぶ人生訓」などというものではありません。この対談で発せられる二人の言葉には、何が良いとか悪いとか、点数付けのようなものはありません。そうであったという事実のみを語ります。一億総懺悔という気分とは無縁。その情緒に逃げずに生きた“戦後”を受け止めるには、わたしはまだまだ勉強不足のようです。