『R帝国』

中村文則の『R帝国』を読みました。初めて読む作家で、そのキャリアを知らずに手に取りました。

読み始めてすぐに、若い作家の文章との印象を受けました。辺見庸の、芥川賞を受賞した『自動起床装置』について、瑞々しい文体に若い作家の手によるものとの印象を抱き、その後で実際の年齢を知って、そのギャップに驚いたという書評を読んだことがあり、それを思い出しました。読んでいて、作家の熱量が正面から迫ってきます。

この『R帝国』は、奇しくも、その辺見庸が唱えた「鵺のような全体主義」を小説で表現したものです。誰もが、自分が全体主義を支持しているつもりも、加担しているつもりもないまま、つまり明確な意識を持つことなく結果的に追認している。さらに言うなら、その追認しているという意識もないまま受け入れている日常。

人という種に過剰な期待をするのが間違いだと嘯くことは簡単です。組織の歯車になるのは嫌だと言う人こそ、それ以外の生き方を知らず、自己正当化の言い訳と諦めとともに歯車になるものかもしれません。自分の在り方を歯車としか認識できないから。

この作品は、世の中の在り方を問うているようで、違います。国があって、それを構成する国民がいるのではなく、個人の集合体としての社会があり、国という単位があるのです。問われるのは、一個人の生きる姿勢です。

このR帝国は醜悪な国家ですが、その存在を許可しているのは国民一人ひとりです。物語の終盤、その権力中枢にいる人物がR帝国と国民の相互依存について語ります。幸福と正しさの相克。

「三人寄れば文殊の知恵」と言いますが、それも“三人”まで。それ以上に人数が集まれば、まず影響力を持つのは声の大きな者です。あるいは弁の立つ者。

わかりやすい正解はありません。それを“誰か”が用意してくれることもありません。日々、勉強であり修行です。

R帝国 (中公文庫)

R帝国 (中公文庫)

キミ金2

お金の話をするのは、はしたない。でも、切実なものであるのもまた、お金。

そのお金についての正しい知識、考え方を持たずに書店の棚に溢れている経済の本(その多くは裕福になるための指南本)を読んでも、誰かが得れば誰かが失うゼロサムゲームにおいて、それらは「カモ来いホイホイ」、カモになるだけです。

例えば生産性。この言葉を自信を持って胸を張って説明することが出来ますか? その生産性を上げるためには消費という下支えが必要不可欠だとしたら、ただ無駄を排して効率を良くするというだけでは駄目です。

本書では、国の経済を語るに際して、一般家庭の家計に置き換えることと、国民一人当たりの借金として扱うことの無意味さが説明されます。

その類の解説や報道がまかり通るのは、わかりやすければ、それで理解した気分になれるからです。

それは思考の放棄。それを著者は戒めます。勉強すること、それによって(自分なりの)意見を持つことの大切を説きます。

著者が指摘する経済における最大の敵「不確実性」を相手にしては、誰もが間違う可能性があります。その事実を受け入れ、正すべきは正す。それを繰り返す。

何も難しいことではありません。一人で苦しみながらすることでもありません。ジンサンと月(ゆえ)さんと、もう一人バオバオくん。この三人と楽しく勉強できる、読みやすくてわかりやすい漫画です。

大事なことなので、もう一度。面白い漫画です。

スウィングしなけりゃ

佐藤亜紀の『スウィングしなけりゃ意味がない』はナチス政権下のドイツはハンブルクが舞台。まだ禁止されてはいないアメリカの音楽、ジャズに熱狂する若者たちの姿を描いています。

スウィングとは、生き生きと輝く生命の燃焼でしょう。それを邪魔するものは国家であっても許さない。その独立不羈の在り様こそが、この物語の醍醐味です。

権力に隷属し、それに阿った言動をしてみたところで、力こそが正義であり、その側に身を置く自分は他人よりも優位な立場にあるという思い込みに実態はなく、有象無象は捨て駒として使い捨てられるだけです。

それとは正反対、その国家すらスウィングのためにあるのであり、それを妨げる存在なら価値はないとする態度こそ、大藪春彦の語った「フリーな精神」そのものでしょう。

それを悲壮感ではなく、どこまでも軽みを以て描いたことに、この作品の美点があります。

スウィングしなけりゃ意味がない。これは語順を変えれば、意味があるようにスウィングさせてやるという意思表示、宣言です。

そのスウィング=意味を見失うことなく生きる若者たちの姿が訴えかけてくるものは極めて今日的でハードです。

『我らが少女A』

高村薫の『我らが少女A』は『マークスの山』に始まる“合田雄一郎”シリーズの最新作です。

ある殺人事件が起き、取り調べの過程で、被害者の女性が12年前の別の殺人事件に関わっていた可能性が浮上してきます。物語の焦点は、その女性。12年前には高校生だった少女Aです。その再捜査は、水に放り込まれた石が波紋を広げるように、被害者の家族や友人、知人の記憶を刺激し、心をざわつかせます。

この物語は三人称多視点で語られ、そこに規則性があります。視点を受け持つ人物が変わるとき、つまり場面が変わるときです。A→Bと変わるとき、Aのパートの最後にBへの、あるいはBのパートの最初にAへの言及があり、視点は変わっても時間も空間も繋がっていきます。そうでないときには、「同じ夜~」「そのころ~」等と始まることで、時間軸はそのままで場所だけ切り替わることになります。この同時(進行)性が素晴らしい。

人は、意識的にしろ無意識にしろ他者と繋がっています。そこには上下も優劣もありません。

「誰にも価値があるのでなければ、誰にも価値はない」とはマイクル・コナリーの小説の主人公、ハリー・ボッシュの言葉ですが、ここで捻くれた解釈をするならば、価値とは差異です。それが誰にもある、あるいは逆に誰にもない場合、すべてがフラットであり、そこに差異はなく、それはつまり価値という概念そのものがないということです。

それでも、この日々は尊い。そう思わせてくれる、否、それに気づかせてくれる作品です。

我らが少女A

我らが少女A

『訣別』

マイクル・コナリーの『訣別』を読みました。

物言わぬ死者のために正義を追求するハリー・ボッシュ。その過程で自らが属する警察組織と衝突し、前作では異母弟の弁護士ミッキー・ハラーの調査員になりましたが、今作では無給の予備警察官となっています。一方で、かつて取得した私立探偵の免許も再取得し、個人的に捜査の依頼を受けて活動もしています。この二足の草鞋を履いている状態は、その制度がない日本では馴染みがない、というよりも想像の外です。この『訣別』では、刑事の捜査と、探偵の仕事。この二つが同時進行で描かれます。

この二つの事件のどちらが本書の主なるものかと考えた場合、シリーズとして見たら前者、ひとつの小説として見たら後者です。

ボッシュは、刑事としての捜査を経て、やはり自分は刑事なのだと再認識します。では、探偵としての捜査では? その依頼は、死期を覚った大富豪からの、存在するのかも判然としない(いるかもしれないし、いないかもしれない)跡継ぎを探してほしいというもので、それは血を巡る物語です。

ボッシュの娘マディは大学生になり、父親の元を離れて暮らしていて、クルマで行き来できる距離ということもあり、頻繁に連絡を取り合い、一緒に食事をするなどしています。この『訣別』ではマディは事件には関わりませんが、ボッシュはヴェトナム料理の話をきっかけに、いままで黙っていたヴェトナム戦争に従軍したときの“トンネルねずみ”としての恐怖に満ちた活動を娘に話すことになります。

それが正しい態度だったのか悩むボッシュに対し、マディは父親の言動に理解を示します。これが、その場での流れの一部としてではなく、数日後にあらためて電話で話したときだったというところが素晴らしい。たんに父親を慰めるためのものではなく、マディが彼女なりに時間をかけて考えての結論だからです。作中では言葉にされていませんが、話してくれてありがとうという気持ちが行間から伝わってきます。

ボッシュが思わず感情的になって話してしまったのは、相手が血の繋がった娘だからです。血。人を縛るもの。探偵としての捜査は、この血に始まり、この血がないがための悲劇を迎えます。この符号は意図してのものだと、わたしは思います。

探偵としての面ばかり書いてしまいましたが、刑事としての事件捜査も読み応え抜群です。どちらかを添え物にしたら興ざめですが、さすがは小説の匠マイクル・コナリー。ひたすらに犯人を追う、そのボッシュの姿もまた豊浦志朗の定義する硬派そのもの。ですので、この『訣別』もまた、わたしにとってはハードボイルドです。

『ザ・ボーダー』②

ドン・ウィンズロウの『ザ・ボーダー』には現実のアメリカの姿が色濃く反映されています。トランプ大統領の誕生です。

トランプ氏をモデルにした人物のみならず、さらに念を入れて娘婿まで登場させます。アート・ケラーは、この二人をターゲットにします。

かつて、大藪春彦が時の為政者をモデルにした登場人物を作品の中でコテンパンにやっつけていたことが思い浮かびます。

アメリカが世界中、特に中米と南米に政治的に軍事的に介入していたことは知られていて、それは『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』にも詳しいのですが、この『ザ・ボーダー』では、時のアメリカの政権が反共のために麻薬組織と取引をして利用したことが取り上げられます。

著者のウィンズロウは、その麻薬の問題を上記の登場人物たちと結びつけます。もちろんフィクションですが、現実のトランプ氏(と彼の周囲の人たち)のロシアとの関わりに対する疑惑の視線を、小説作品として別の事柄に置き換えたのであろうと思われ、その反骨心と作家としての発想には脱帽です。

船戸与一は、大略「ハードボイルドは帝国主義のある断面を不可避的に描いてしまう」と書きました。やはり、『ザ・ボーダー』はハードボイルドです。

ザ・ボーダー 下 (ハーパーBOOKS)

ザ・ボーダー 下 (ハーパーBOOKS)

『ザ・ボーダー』①

ドン・ウィンズロウの『ザ・ボーダー』を読みました。『犬の力』『ザ・カルテル』に続く三部作の完結編です。

今回、主人公のアート・ケラーは麻薬取締局局長として麻薬カルテルとの戦いに臨みます。前二作と同様、彼は徹底的に戦います。敵組織とも、保身を図り裏切る味方とも。

わたしは、この物語を読むにあたって一冊の副読本を用意しました。豊浦志朗船戸与一)の『硬派と宿命』です。

そこで定義される硬派の論を踏まえて読むと、ケラーは船戸の言う“硬派”そのものです。ひたすらに行動のみを志し、その理由を自らに設定しません。

もちろん、アメリカに暮らす人々を麻薬禍から守るという目的はありますが、それは彼の思想にまで昇華されてはいません。だから、戦争と呼ぶに相応しい苛烈な戦いを遂行するにあたっての心情が地の文や彼のセリフで語られても、それが正しく非の打ちどころがないものであっても物語の芯になり得ていません。

これは作品の欠点でも瑕疵でもありません。むしろ逆です。このことにより、物語はケラーの心情に寄り添う、より正確に言うなら寄りかかることから免れ、人間の根本的な在り様を描き、読者に問いかけるものになっています。

豊浦志朗は、大略「硬派は体制側にも反体制側にもいる」としました。それをケラーは証明しています。彼が硬派であるなら、わたしにとって『ザ・ボーダー』はハードボイルドです。

ザ・ボーダー 上 (ハーパーBOOKS)

ザ・ボーダー 上 (ハーパーBOOKS)