『冒険小説論』

かつて、「読んでから見るか 見てから読むか」という映画のコピーがありました。北上次郎の『冒険小説論』も同様です。冒険小説と呼ばれる作品を読んでから本書を読むか、本書を読んでから冒険小説と呼ばれる作品を読むか。

まず、後者はあり得ません。本書を手に取るのは、程度の差こそあれ、そのジャンルに馴染んだときです。つまり、この『冒険小説論』を読むとき、これまでに読んだ作品が理解の基となります。それと同時に、この本を読んでからの読書は、また一味違ったものになるのは間違いありませんから、「『冒険小説論』を読んでから〇〇を読むか 〇〇を読んでから『冒険小説論』を読むか」(〇〇は作品名でも作家名でも、どちらでも可)です。

それにしても、自分の無知は承知していましたが、自室の本棚に並んでいる本がどのような歴史の流れを受けて在るのかを知らずにいたのは浅学の謗りを免れず、何を読んでいたのかと自分に問えば、黙って俯くより他ありません。

この本を手に取ったのは、船戸与一の短編が目当てで購入した日本冒険作家クラブ編のアンソロジー全六巻の一冊に北上次郎が一文を寄せていて、そこで冒険小説の歴史の概略を読んだことがきっかけでした。

海外編、国内編ともに前半は知らない作家の話です。というのも、歴史を語るのですから、古い時代の作品から始まり、ほとんどが現在では見かけない本ばかりだからです。それでも興味深く読めるのは、著者の博学に裏打ちされた愛情が溢れているからです。

時代が下り、読んだことのある作家の章になると、読者(=わたし)の読書経験と重ねてのものになりますから読み応えも抜群です。

せっかくの日記ですので、読んでいて特に立ち止まったところを海外編と国内編から一つずつ。

海外編で、その歴史の流れの大きな分岐点を表す言葉に「70年代の壁」というものがあります。冷戦真っ只中、冒険小説の書き手がスパイ小説や謀略小説にシフトします。これは個人が戦う理由としての正義を見定めることが困難な時代になり、状況や情報それ自体が主役として描かれるようにならざるを得なかったからとのこと。その壁を如何に超えるのかというのが当時の作家たちの、あるいは冒険小説というジャンルの課題だったそうです。

国内編は、時代伝奇小説に紙幅が割かれます。その中で、ニヒリストヒーローとして林不亡の丹下左膳が紹介されます。ご存知のとおり、彼は隻腕の男です。わたしは、船戸与一の『猛き箱舟』の香坂を思い出しました。この香坂もまた、物語の終盤、隻腕となります。その船戸与一も一章を割かれており、『夜のオデッセイア』を取り上げて、日本の伝奇小説の伝統を引き継ぎ、現代を舞台に蘇らせたと評している箇所を読み、ここで繋がったと大きく頷きました。

思い立ったが吉日という言葉があります。その読書遍歴のいつ読もうと、そのときに読んで良かったと思えること間違いなしの一冊です。