愛とは

「愛は惜しみなく与う」と云います。その“愛”をたった二人の友人にだけ与え、その後に自らの命を絶ったのが、村上春樹の『ノルウェイの森』の主人公の友人のキズキでした。

親の、子に対する無償の愛。それはキズキのように消え去ることすら自分に許さないもので、それ以上の愛を私は知りません。

キリスト教がイエスに父親を求め、その後に聖母マリアも信仰の対象にしていったのも、愛を説く教えとしては自然なことなのかもしれません。

映画『十戒』にも見られるように、西洋の神は厳格で強い存在です。しかし、遠藤周作は「人間の弱さを許し、それごと包み込む」神を模索しました。その一例が、『沈黙』の物語後半での踏み絵の場面です。

『わたしが・棄てた・女』に登場する森田ミツは、他人の悲しみから目を逸らすことができません。解説に曰く「運命の連帯感」によって。

たった一度だけ体を許した男に対しても、同僚の奥さんというだけの女性に対しても、そして、苦しい病気に苦しむ人々に対しても。

それは、作中で語られるように同情でも憐憫でもありません。もっと根源的な、人として在ることの悲しみのようなもの。それが物語の全編を覆い、読者の心を揺さぶります。

私はミツのように与えることができるかと問われれば、上記のキズキとは似て非なるもの、世の大多数の方と同じ答えしか言えません。「家族に対してなら」と。この世界で唯一、損得勘定よりも感情が優先される人間関係である、“家族”にだけ。

私が、物語の内容とは別に作劇において感動したのは、ミツが愛した男が恋愛の対象として目をつけ、やがて結婚する女性の造詣です。彼女は、主人公が「聖母のような」と述懐するミツの美点を際立たせるために、例えば自分の美しさを意識した傲慢な女として配されていません。ミツが自身を平凡だと認識しているように、彼女もまた心優しく平凡です。唯一の違いは、美貌であれ経済力であれ社会的地位であれ「持つ者と持たざる者」であることだけです。

単純な二律背反は、わかりやすいがために事の本質を見誤る危険性があります。そして、私たちの平凡な日常は(平凡なのに)奇妙に複雑です。

そして、ミツが最後に選んだ場所。他人に求めることをしなかった彼女が唯一求めたもの。それは、受け入れられること。

読んでいる間、ずっと緊張していました。怖々とページを繰る、そんな読書でした。