感傷

『わたしが・棄てた・女』の森田ミツの他者への悲しみの共感は、著者が書いているように同情や憐憫、つまり感傷ではありません。

その感傷を描いて世評が高いのがレイモンド・チャンドラーです。

その作品の主人公、フィリップ・マーロウは傍観者であり観察者です。決して当事者ではありません。その距離感が心地好くもありますが、物語は事態の解決を見ることなく、苦い現実世界の姿を提示して終わります。そこに差す一条の光、汚れた街を行く騎士の精神を救いにして。

『わたしが・棄てた・女』を読んで思いました。「マーロウはミツを救えない」と。

人には善意というものがあります。それがなくては人の世は成り立ちません。しかし、それが「自分の生活に影響しない範囲で」という注釈がつくものであることも事実です。

色々なことを考えながらの読書でした。「では、ミツが現実に目の前にいたとしたら、オマエはミツを受け入れて共に生きていけるのか」と問われたら、答えることに躊躇します。

主人公の男はミツを都合の良い女として扱い、「自分は平凡な男であり、自分がしたことなど、世の男性なら多かれ少なかれ誰でもしている程度のことだ」と絶えず自分で自分に確認します。

私は、それを否定できません。彼がミツを選ばなかったことに憤りを覚えません。

「この悲しみにも意味があると云う神は残酷だ」と思うミツ。それでも、他者を想うことを止めないミツ。その姿が神々しく読む者の胸に迫るのは、とても残酷なことです。だって、尊いと思いながらも、私はミツのようには生きられないのですから。