報道の死

特定秘密保護法案」において、知る権利、報道の自由に配慮する旨の文言が付記されるとのことですが、これほど馬鹿らしいことはありません。

その法律が実際に運用されるに際して、運用する側が自分たちの意に沿わないことに譲歩するわけがありません。その文言が担保になると本気で考えているなら、最大級の愚か者です。

これは、新聞なら第一面や社説で、テレビのニュース番組ならトップや特集で連日のように追及されるべきことです。何故なら、報道に携わる人たちの首に鈴をつけ、手枷足枷を嵌めて行動を制限するもので、自分たちの存在意義に関わる問題だからです。

しかし、日々の報道を見聞きするに、その危機感は皆無です。

マスコミが「特定秘密保護法案」を糾弾しないのは、それによって利益を得られる側に身を置いている(と考えている)からではないでしょうか。

先の戦争の時代、新聞を含むマスコミは国民と政治家、さらには軍部をも煽ったと云われています。批判すべき権力と一体化し、それ以上に支配する快感に酔う。親方日の丸という言葉すら裸足で逃げ出す傲慢。

消費税の税率を上げざるを得ないとの主張を繰り返す中で、(自分たち)新聞は社会的に特別な存在だから軽減税率を適用して保護すべきと書いた厚顔と通じます。

「意識が収奪される」とはこういうことかと戦慄を覚えています。