『冬の光』その②

この作品に登場する男性は平凡なまでに典型的な企業人です。その妻も、内助の功こそが生きがいという女性です。

この妻は、男性との出会いにおいて学歴や知識という意味ではなく、一人の人間として聡明という描かれ方をします。作中において、彼女はまったく悪くありません。ただ、夫を自分の夫であるとしか認識出来なかったのです。自分とは別の人格を持つ他人、一人の人間として見るという発想がなかったのです。もちろん、不倫を許すのが女の器量などと言うつもりはありません。しかし、夫の心に関心を寄せ、その内側に分け入ろうとしたならば、それは妻として正当な態度であり、この夫婦、家族の姿は違ったものになっていたはずです。

もう一方の女性。彼女は自分の力で生きていける才能、能力の持ち主です。そのため、男性優位の社会で周囲と衝突を繰り返します。その中で、主張すべきことを主張し妥協を許さない姿勢を支持する人たちも現れます。読んでいて切なかったのは、彼女自身は変わっていないのに、時代とともに社会の価値観や考え方が変わっていくために周囲からの評価が変わっていくことです。もちろん、良い方から悪い方に。

誰にも価値があるのでなければ、誰にも価値はない。これはマイクル・コナリーの作品の主人公ハリー・ボッシュの言葉です。人の値打ちとは何なのでしょう。わたしには、その問いに答える言葉がありません。

物語の最後、この女性の教え子たちによって彼女の功績を称える本が作られ、その人間性に救われた個人的な経験が語られる場面があります。無駄ではなかった。主人公の男性の抱いた感慨に救われるような気持ちになりました。

その男性も同様です。ひとつ前の記事で書いたのは家族、特に娘とのことでしたが、彼は東日本大震災で被害に遭った漁師と出会い、その見ず知らずの相手に持っていた少なくない金額のお金を委ねます。その漁師は、復興の第一歩を踏み出した後、お礼のサンマを送ってきます。想いは明日に繋がっていくのです。

このお金、実は訳ありで、男性は受け取りたくなかったけれど受け取らざるを得なかったものなので、自分のために使うよりも誰か他人の役に立つ方が望ましかったのです。それを、受け取った漁師は「一生懸命働いて手にしたのであろう大金」と思います。ここにもまた認識の断層があります。人の世とは、こうして営まれていくのかもしれません。

冬の光 (文春文庫)

冬の光 (文春文庫)