尽くす

高村薫と南直哉の対談『生死の覚悟』は、仏教の入門書としては薦められません。二人は、仏教に馴染みのない初心者の読者を想定し、それを補うべく前提となる基礎知識を会話の端々に配置するという意識が、ないとは言いませんが希薄です。そして、何よりも本書の、というよりも対談者の二人の際立った特徴として、仏の教えを信じるというところから出発して仏教にアプローチして“いない“という点が挙げられます。本書で語られるのはあくまでも仏教の一断面と捉えるべきでしょう。

わたしたちは言葉を用いて思考します。それを他人に伝える際も同様です。その言葉によって真理は説明し得るのでしょうか、悟りは伝え得るのでしょうか。二人は言葉を積み重ねてきた仏教の歴史を重視します。

「言い得ないもの」、つまり真理や悟りは言葉を尽くし、考え続け、どうしても言語化が出来ないという摩擦や抵抗感を実感することで、それを認識するしかないというのが眼目です。この逆説に痺れました。

この箇所を読んで、漫画『MASTERキートン』を思い出しました。主人公のキートンは保険会社のオプ(探偵・調査員)であると同時に考古学者です。フランスの、ある廃校寸前の社会人学校で教壇に立ち、生徒たちに「人は、どうして学ぶのか」と問い、自ら答えます。「それが人間の使命だからです」と。

性急に答えを求めることなく、わかりやすい正解に飛びつくことなく、そのときの精一杯を大切に日々の生活を送りたいと自分に言い聞かせました。

生死の覚悟 (新潮新書)

生死の覚悟 (新潮新書)