好漢

すべてが順調な人などいません。誰もが悩みや鬱屈を抱えながら日々を凌いでいます。

わたしがネットで意見めいたことを書くのは、このブログとツイッターだけですが、そこで痛切に感じるのは、自分が何ら特別な知見を持ち合わせてはおらず、いつも教えられてばかりということです。

自分一人で考えられることなど、たかが知れています。実際、誰か他人の言葉に触発されたときの方がより良く考えられたり、言葉に出来たりします。

壁は、自分で乗り越えるしかありません。傷は、自分で癒すしかありません。他人の優しい慰めの言葉や、あるいは厳しい𠮟咤激励の言葉も、ありがたく嬉しいものではありますが、それがどれほど理に適っていようとも、正論であろうとも、当人の“納得”と同義ではありません。

井の中の蛙大海を知らず」という言葉があります。それに続けて「されど井戸の深さを知る」とも。

どちらも大切ですが、順序として深さの前に広さを知らなくてはいけないと、わたしは思います。広さを知らなければ、深さを測ることに意味はありません。

人間社会において、その広さとは自分以外の他人のことです。より良いアウトプットは、より良いインプットから。その逆はあり得ません。

縁あって集まった五人。その中心にいるのは、まだ二つ目の若い噺家。その彼は、他の四人の悩みや鬱屈を他人事として遠ざけておくことが出来ず、自分も同様のものを抱えながら奔走します。ときどき無力感に苛まれながら、でも本気で。

この彼の努力によって他の四人の悩みや鬱屈が解消されるわけではありません。落語に魔法の力があって、彼が教えることによって事態が解決するのでもありません。でも、一年という時間を共有した五人は、自分の足で一歩を踏み出します。

わかりやすいハッピーエンドではありません。しかし、だからこそ胸に沁みます。

しゃべれどもしゃべれども (新潮文庫)

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