知識と教養

Mr.childrenの「everybody goes-秩序のない現代にドロップキック-」の歌詞に「知識と教養と名刺を武器に~」とあるように、教養は知識とセットで語られます。そして、明確に区別されて。あくまでも、わたしの関心の範囲内のことですが、立花隆の『東大生はバカになったか』が書かれたとき、では教養とは何かが話題になりました。

教養とは何か? 大雑把にいえば、「直接に生産とは結びつかないが、人生はパンのみにて生きるにあらず、持っていれば人生を豊かにしてくれる知識」といったところでしょうか。

何故このようなことを考えたかというと、日本冒険作家クラブ編のアンソロジー『闘!』に収録されている佐々木譲の、先の戦争の末期、オーストラリアの捕虜収容所を舞台にした『八月のサムライ野球』を読みながら、その作品に描かれていることの向こう側、書かれていない部分、その分厚い奥行きを明確に感じ取ったからです。

これは明らかに船戸与一の“満州国演義”シリーズを読んでいたからです。あの巨大な物語が、別の作家の作品までも下支えしているのです。

私見ですが、この厚み、この視線こそが教養というものだと思います。それは、安易にスノビズムと結びつくものではありません。

西洋的な価値観では、この教養を身につけることが大人に成長することであり、だから若者が成長する様子を描いた作品はビルドゥングスロマンと呼ばれ、それは教養小説と訳されたのでしょう。

一度そこから離れて、船戸与一の『満州国演義』を言葉の正確な意味で教養小説と呼ぶことを、わたしは躊躇いません。それほどの作品です。

追記:佐々木譲も筆力のある作家で、何冊か読んでいる、好印象を抱いている小説家です。『八月のサムライ野球』単体では物足りないとか感動を得られないということではありません。人間の希望を謳う、読んで良かったと思える作品です。そうでなかったら、上記のように読むことは出来ません。