再読

ギャビン・ライアルの『深夜プラス1』を初めて読んだのは二十年近く前。正直、面白いと思いませんでした。この名作を理解する読解力が自分にはないのかと、自分にがっかりしました。

また、この作品を下敷きにした志水辰夫の『深夜ふたたび』について、「『深夜プラス1』を楽しめなかった人にお薦め」という言葉をネットで見かけ、ほっとしたことも覚えています。

その『深夜プラス1』の新訳版が出ました。書店で見かけて、最初は躊躇しました。しかし、旧訳版を読んでから、読書については(それなりに)キャリアを積んできたという自負もあります。作品の良さを今度こそ見つけることが出来るかもしれません。ということで、自分への再挑戦。再読と相成りました。

人は慣れるという前提のもと、刺激はより刺激的になることでしか刺激足り得ません。言い換えれば、刺激はエスカレートせざるを得ないのです。

その意味で、あくまでも現在のアクション活劇との比較においてですが、この『深夜プラス1』は地味でけれんに欠けるものです。実際、ページを繰る手が止まらないということもなく、落ち着いて読めました。

一方で、矛盾するようですが、すいすい読み進めることも出来ました。

何故か。自分の読解力が上がったというよりも、はっきり言って翻訳文の差でしょう。ところどころ読み比べてみると、翻訳家の個性と理解しつつも、やはり旧訳版はごつごつしていて読みにくい。それに対して新訳版は丁寧で読みやすい文章という印象です。

さて、作品を楽しめたかという話です。

最初に旧訳版を読んだとき、作品のテンションを落としている原因の一つが、主人公の相棒となるガンマンの造形だと思いました。自らの弱点を自覚しながら、それを克服する意志力もなければ、悪びれず言い訳を並べようともしない、銃の腕前はあってもプロフェッショナルとは呼べない人物です。そして、物語のなかでそのような自分と決別して成長することもありません。

わたしは、これを人の弱さを描いた秀逸な人物造形だとは思いません。共感も出来ません。

主人公も、作中で何度も「こうしておけば良かった」と考えるくらい、超一流というわけではありません。旧訳版を読んだときには、主人公として相応しくなく、上記のガンマンとともに作品がつまらない原因になっているのではないかと思いましたが、こちらは新訳版を読んでまったく違う印象を持ちました。

この主人公は、超一流でありたいと願い、自分に出来る精一杯のことをしようとしますが、物語の展開のなかで自分がそうではないことを思い知ります。最後には、それを自ら言葉にします。そして、それを受け入れてなお自分であろうとします。

これこそが人の強さです。

そう思えたことが、二十年前との違いでした。読んで良かったと思います。ずっと抱えていた宿題を片付けられたようです。

深夜プラス1〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)

深夜プラス1〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫NV)