凡戦に思う1

亀田興毅の世界タイトルマッチ。試合当日も、結果が出た翌日も、読売新聞のスポーツ欄では、写真も載らず、同日に行われた清水智信の方が大きく扱われていました。特に、翌日の記事では、ランキング下位の選手とばかり試合をしていることがはっきりと指摘されており、亀田のボクサーとしての商品価値の下落が如実に表れています。

彼が“作られた”チャンピオンであることは誰の目にも明らかです。しかし、それを「本物の実力が伴っているのなら、このような露骨な売り出し方も一つの手段として許容する」というのが、関係者及びボクシングファンの偽らざる本音だったのではないでしょうか。

唯一にして最大の誤算は、亀田に実力が伴わなかったことです。選ばれし者のみが上がることを許されるリングで戦うというのは、それほどに厳しいことであり、亀田は責められて然るべきです。

しかし、彼が“作られた”チャンピオンであるならば、その責めは彼一人が負うべきものではありません。“チャンピオン亀田興毅”を作った、彼の周囲で蠢いた人々の存在を忘れてはいけません。

あまりの凡戦に、批判を通り越して白けたムードが漂っています。幼少の頃から身を置いてきたボクシング界の多くの関係者から、あるいは日本中のボクシングファンから冷めた視線を浴びせられる苦痛は如何ばかりか。世界チャンピオンの肩書きも、三階級制覇の経歴も、彼の心を安らかにはしてくれないでしょう。自分の実力不足は、他の誰でもない自分自身が痛感しているでしょうから。

リングでの借りは、リングでしか返せません。戦う者は強くなくてはいけません。その最低にして絶対の条件を満たして、初めて個性やパフォーマンスを云々できるのです。