『青春は屍を越えて』

大藪春彦の『青春は屍を超えて』は、ここ数年、私にとって課題図書と呼ぶべき作品でした。というのも、「硬派の宿命・野望篇」の泰山氏の旧ブログのコメント欄にお邪魔して、色々と有意義なお話をうかがう中で、大藪春彦を話題にした時、「当然、読まれていると思いますが」というセリフとともに、本作の名前が挙がりました。しかし、恥ずかしいことに私は読んでおらず、あれこれ拙い意見を書き記したこともあって、氏に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

それ以降、古本屋に立ち寄る機会を作っては、必ず大藪春彦の棚をチェックするようにしていましたが、初版が昭和五十五年の絶版本、なかなか手に入れることができずにいました。そして、デパートの催事場で開催されていた複数の古書店が集まっての期間限定の古本市でようやく発見、購入することができました。

若者を主人公とした、八編から成る短編集です。

多少なりとも大藪作品を読んでいれば、この作品集に登場する若者たちが、わかりやすい成功を手にすることなく散っていくであろうことは想像できます。そこで、「伊達邦彦になれなかった男たち」という視線、テーマを持って臨みました。

正直に告白すると、初めて『野獣死すべし』を読んだ時、著者の想いが横溢するその生々しさに息苦しくなり、“一読巻を置く能わず”とはならず、文庫で百ページちょっとという分量ながら、読み終えるのに数日を要しました。今でも、『野獣死すべし』は、小説というよりも散文詩と呼んだ方がしっくりきます。

その『野獣死すべし』の生き延びた伊達邦彦と、『青春は屍を越えて』で死んでいった若者たちの違いは何か。このような問いを発しておきながら、本作を読み終えての私の答えは「無い」です。違いはありません。

三島由紀夫は、大略「人間の精神は、その肉体から僅かでも外にでることはできない」と言いました。本作の若者たちはそれを、卑小な自分からの脱却を試みました。それは伊達邦彦も同様です。彼らにとって、その試みがすべてであり、結果は問うものではありません。

ここで、豊浦志朗船戸与一)の硬派のテーゼを確認します。

「硬派は目的を選ぶ。しかし、目的のために行動するのではない。行動するために目的を選ぶのだ。(中略)行動こそが何にもまして重要なのである。かくして、通常、手段とされているものが目的化する。目的とされているものが手段化する。この逆転こそ硬派の最大の特徴である。」(硬派と宿命)

この作品集の若者たちもまた硬派の如く、行動に飢えて、それを満たそうとしました。彼らは“伊達邦彦になれなかったのか”。そんなことはありませんでした。なるも、ならないもありません。彼らも邦彦と同じように、その命を燃やしていました。繰返しますが、邦彦も含めて、彼らにとって結果は副次的なものに過ぎません。

短編という分量的な制約もあってか、読者を意識したけれんも控えめで、無駄を排した、散文詩という印象を持った『野獣死すべし』に近い味わいです。

彼らを“幼い”とは思いません。その冷たい熱に、温くなった自身の魂をきりりと引き締められました。泰山氏が、折に触れて本作を手に取るのも良くわかります。

人との出会い、本との出会いに感謝。