「撃つな」

カダフィが「撃つな」と叫んだというニュースを見て、私は船戸与一の『猛き箱舟』を思い出しました。

海外に進出する日本企業が現地で軋轢を生むたびに、それを暴力的手段で解決する隠岐浩蔵。渾名は灰色熊(グリズリー)。日本の経済的繁栄を側面から、汚れ仕事で支えてきた隠岐浩蔵は、死の間際、その役目を自分に要求した世の欺瞞を糾弾します。そして、胸のうちで呟きます。

「飽食の世界にのうのうと生きる日本人よ、おまえらのうち物質的窮乏に耐えてなお精神の輝きを求めつづける者のみ、このわたしを撃て! 虚飾の世界にやにさがってる日本人よ、おまえらのうち一切を無にしてなお新たな価値を追い求める者のみ、この灰色熊を撃て!」

私は、カダフィが「撃つな」と叫んだことを否定しません。嘲りません。それは、生ある動物として真っ当な反応です。では何故、隠岐浩蔵は「撃て」と言えたのか。

それは、大藪春彦の『野獣は、死なず』(光文社文庫)の解説で、北方謙三が書いています。『野獣死すべし』で、伊達邦彦は、銃口を向けた手が震えるほどの親友の真田を撃ちます。何故、撃てたのか。北方謙三は言います。「小説だから、できた。小説だから、絶望すらも具現できた」と。

連想は連想を生み、妄想は加速します。隠岐浩蔵と対峙していたのは香坂でしたが、それは同時に伊達邦彦だったのではないでしょうか。邦彦こそ、“灰色熊を撃てる者”だったのではないでしょうか。

それは人が人でないモノになる瞬間でもあります。

カダフィの命を絶った弾丸に、正義はありません。それは、伊達邦彦が真田に放った弾丸も、香坂が隠岐浩蔵を撃った弾丸も同じです。

大藪春彦船戸与一が描く世界は、それほどまでに苛烈です。

アナタは、灰色熊を撃てますか? 私は……。

猛き箱舟〈下〉 (集英社文庫)

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