血と業

旧約聖書の昔から親と子の相克は語られており、珍しいものではありません。それが形や語り口を変えながら続いているのは何故でしょうか。

血は人の心を縛ります。理屈や損得勘定、物事の善悪を超えて動かします。そして、受け継がれて今に至るものとして人と過去を結びつけます。それは歌舞伎に代表される伝統芸能も同じ。連綿と受け継がれて現在に至ります。

狂言師野村萬斎は、大略「決められた型の中に無限の自由がある」と語りました。新しいということ、それ自体が価値であると見做される世の中で、先人から受け継ぐことや守ることが至上の命題とされる世界。もちろん、同じ人間は二人とおらず、時代とともに変化もしているでしょう。それでも、例えばクラシック音楽のように「モーツァルトの楽曲を当時のピアノで演奏したらどうなるか」といった類の問いかけは発せられません。

人間の本体は遺伝情報にあり、肉体はその器に過ぎないという論があります。個人は、そのDNAの遥かな旅の一部を受け持っているだけと。優れた芸術もまた同様に、自らが受け継がれ生き延びるために魅力的な役者や演出家を生み出し、配しているのかもしれません。

その見えざる意志は、敗戦とGHQの占領統治という逆境にあっても変わりません。戦争に負けようと、国土を焼け野原にされようと、その“横軸”に対して、豊饒な文化とともにあった日本の歴史という“縦軸”は微塵も揺らぐことはありません。

五條瑛の『焦土の鷲』において、それは歌舞伎(と、それを守ろうとする人たち)であったり、天皇(と、その存在を守ろうとする人たち)であったりします。この二つはぴったりと重なります。それに対して、血ではないもので、移民による多民族国家アメリカと“祖国と国民”として結びつこうと必死になる者もいます。それは血に抗うことであり、まだ血に縛られているということでもあります。それが厳しい言い方であるなら、縛られざるを得ないと言い換えてもいいでしょう。

血と業の物語。ページを繰る手を止めさせないエンターテインメント小説の装いの下に隠した刃は鋭く、その切れ味は抜群です。

この作品を読み終えて、自分でも意外ですが、埴谷雄高の『死霊』の「自分とは何かではなく、何を以て自分とするのかと問うべき」というテーゼを思い出しました。自分とは何かを考えることは、国とは何かを考えることなのかもしれません。