『東京輪舞』

八甲田山の昔から、日本人の責任を取らない体質は指摘されています。それが最も顕著に表れたのが、第二次世界大戦の後、戦犯として公職を追放されていた人たちが、東西冷戦の深刻化と軌を一にして続々と復帰したことです。あのとき、たとえ法的に許されようと、祖国を滅亡の淵に導いた責任は免れないと、当事者たちが自主的に紳士協定を結び、公職に戻ることは疎か、その昔の院政の如く陰から影響力を行使することもなく、市井の一私人として隠遁生活を送っていたら、この国の形も違ったものになっていたに違いありません。

ロッキード事件に始まり、東芝COCOM違反事件、ソ連の崩壊、地下鉄サリン事件警察庁長官狙撃事件、金正男密入国。社会を騒然とさせた数々の事件の裏側で繰り広げられる諜報戦、暗闘。

そのなかで、国であれ官公庁であれ企業であれ、組織は、それ自体が命を持った存在であるかのように身をくねらせ、もがき、生き延びようとします。その身を形作る、組織に身を置く人々を喰らいながら。嘘と保身、その二つを両輪として真実と良心を踏み潰しながら。

その組織において、立身出世を自らの価値と同一視する者もいれば、自らの信念に基づいた行動に意義を見出す者もいます。しかし、どこまでも敗戦国でしかない日本で、両者はアメリカの意向に沿う形でしか事態に立ち向かえず、許された範囲でしか職務に臨めません。その果てで、彼ら彼女らは何を手に入れたのでしょう。

この昭和平成裏面史を貫いているのが田中角栄です。著者は、彼を日本人全員の父親と見立てます。その田中角栄は、もう一人の父親、アメリカと相容れませんでした。ひとつの家に父親は二人は要りません。当然のことです。

わたしは年齢的に田中角栄が今太閤と呼ばれた頃を知りませんが、彼が自らの考えを自らの言葉で語ることの出来る政治家だったことはわかります。いま、そういう政治家がいるでしょうか。著者が主人公に言わせる「田中角栄がいてくれたら」というセリフは、彼の持つカリスマ性に心酔してのものではなく、そういう人物のいない社会の貧しさと、それを自覚するところから一歩を踏み出さなければならないという覚悟からのものと受け取りました。

東京輪舞

東京輪舞