読む劇薬・大藪春彦

大藪春彦の作品を読んで感想を書くことは意味が無い。何故か。そこに書かれていることがすべてだからだ。毒を以って毒を制す。悪魔に魅入られたかのような魂の浄化作用。それが大藪春彦を読むということだ。

カーとガンとセックスを除いたら何も残らない。手垢のついた大藪批判の決まり文句。文庫の解説にさえ“サラリーマンのストレス解消小説”などと書く評論家。彼らは皆、大藪春彦という磨きぬかれた鏡に自らの醜悪な姿を映している。

大藪作品の主人公は、極限まで高められた意志の具現した姿に他ならない。船戸与一の言う“行動のみを志す”という意志の。

大藪春彦は言う。「フリーな精神でありたい。フリーな存在でありたい」と。自由とは“自らに由る”と書く。自分を縛るあらゆるものから自由でありたい。それは社会的な立場かもしれない。身近な人間関係かもしれない。もっと切実に、金かもしれない。

人は誰でも対価としての金を得るために労働として労力と時間を切り売りしている。そこで優先されるのは組織としての他者の論理であり、都合だ。大藪作品の主人公が自由を求めた時、その意志が、自分を抑圧する社会権力に対する暴力という形で現れるとともに、金を求めるのもまた必然なのだ。それは単なる金銭欲ではない。

上記の“カーとガンと……”の文脈で、大藪春彦作品の主人公は皆同じという意見がある。大藪作品の読者なら、“伊達邦彦の子ども”と言ったりもする。当たり前ではないか。極論するなら、私は大藪作品の主人公に名前は必要無いとすら思う。夢枕獏は人気シリーズの『陰陽師』で主人公の安倍清明に、自分を縛るものが“呪(しゅ)”であり、その最たるものが名前である、と言わせている。名前を与えられた時、その瞬間に“そのヒト”として規定される。動物園の檻の中にいる動物なら、あるいは家庭で飼われるペットなら、名前や愛称をつけられるだろう。だが、荒野を走る野獣はそんなものとは無縁だ。だから、伊達邦彦が主人公のデビュー作は『野獣死すべし』なのだ。そして、ただ獣として、ただ暴力としてのみ存在する。大藪作品の主人公はその行動そのものなのだ。

その純粋さは劇薬だ。登山をして何時間も緑溢れる木々の中を歩いていると、きれいな酸素を取り込むことで体内の悪いものがすべて吐き出されたかのように、疲れもまた心地好く気分爽快になる。一冊読み終えると、そんな気分になる。

徳間文庫版の『凶銃ワルサーP38<続皆殺しの歌>』の巻末に北上次郎によるインタビューが載っている。そこで大藪春彦は、過労で入院した時に同じ大部屋にいた老人が手術を前にして『野獣死すべし』を読んでいたことに触れ、「僕みたいな作家の作品でも、読者が読んでくれて、それで生きる気力っていうのか、持ってくれたら嬉しいことだと思いますねえ」と発言している。まさにそういう作家であり作品だ。