印象と数字

ここ最近、安倍首相を批判する際、「民主党(が政権与党にあった)時代は言うほど悪くなかった。これこれの数字は安倍内閣の現在より良い」という言説が見られます。

一方、安倍首相を支持する人たちは、各種の様々な数字を挙げて、その手腕と成果を褒めそやします。

互いに、相手の主張は無視して。あるいは、頭から全否定して。

アメリカがくしゃみをすれば、日本は風邪をひく。アメリカでの流行や風潮は、数年遅れで日本にやって来る。

それは「戦後レジームからの脱却」を唱える総理大臣のもとでも変わらず、むしろインターネットが世界を覆う現代ではタイムラグが短くたってすらいます。

アメリカ社会がトランプ大統領の評価を巡って分断され、その亀裂が従来の民主党共和党のどちらを支持するかというものよりも深いことが懸念されています。

それと同じことが、ほぼ同時進行で日本でも起きています。安倍首相を支持するか、支持しないか。

いわゆるリベラル左派が安倍首相や彼の同調者を批判するとき、「わたしのように考えることが出来ない馬鹿」という蔑みを感じます。彼ら彼女らが挙げる数字は、その印象論の次、二義的なものに過ぎません。

一方、安倍首相を擁護する人たちは、まず支持者の感情に訴えます。自尊心をくすぐろうとします。彼ら彼女らの挙げる数字はアリバイに過ぎません。

立場を異にしていながら、印象と数字の扱い方が、まるで合わせ鏡のように同じです。ただ、鏡なので逆に映っているだけで。

罵りの言葉は、そこにどれほど真実が含まれていようと、相手の心に響きません、届きません。戦略として下の下です。

日本社会の分断を嘆く人が、その分断を推し進めている矛盾。

豊浦志朗船戸与一)が定義する硬派の特徴の一つに、目的のために手段があるのではなく、手段(行動)のために目的があるかのような主客の逆転がありますが、その先にビジョンもなく相手を否定して批判してお終いでは、これは硬派とは異なる、ただの本末転倒でしかありません。