『七人の侍』②

今回『七人の侍』を観て感心したのが、死の描き方です。

野武士との戦いにおいて、七人の侍から戦死者が出ます。それらは敵との一騎打ちの末に壮絶に倒れるというものではありません。種子島(鉄砲)によるものです。

それは一瞬の出来事。銃声が轟き、倒れる。

昨今のストーリー展開なら、死にゆく様子を描くことにたっぷりと時間を費やし、悲しげな音楽をたっぷりと重ね、「泣ける名場面」などと謳うところでしょう。

七人の侍』では、撃たれたら倒れ、もう死んでいます。そして、すぐに次の戦いへと物語は進んでいきます。これが逆に、もともと間尺に合わない戦いに身を投じた彼らの死を荘厳なものにしています。

観客は馬鹿ではありません。そして、この作品の作り手は観客を馬鹿にしていません。

その中で一人、菊千代の死にざまについて語りたい。

物語の序盤、勘兵衛は、小屋に閉じこもった盗賊に人質にされた幼い子供を、自らの髪を剃って僧のふりをすることで油断を誘い、見事に救い出します。それを目撃した菊千代と勝四郎は勘兵衛に惚れ込みます。

その菊千代が、物語の最後、女たちが身を隠している小屋に押し入って立てこもった野武士の首領を、種子島で撃たれながらも倒し、彼女らを救います。自らの命と引き換えに。

物語の中盤、水車小屋から焼け出された幼児(おさなご)を抱いた菊千代は、川の中でくずおれるように膝をついて叫びます。

「こいつは俺だ。俺もこのとおりだったんだ」

そう、菊千代は、時間差はあれど、直接ではなくても、勘兵衛と同じように子供を救ったのです。勘兵衛を同じことをしてのけたのです。

この繋がりに涙しました。