『七人の侍』①

「午前十時の映画祭」にて、黒澤明の『七人の侍』を観ました。映画館で鑑賞するのは、1991年のリバイバル上映以来、二回目です。

物語の内容を承知して、展開の繋がりを意識しながら観ることが出来、その脚本の見事さ、言い換えるなら、無駄な登場人物が一人としていない、不要なエピソードが一つとしてないことに感じ入りました。

一例を挙げるなら、序盤の、百姓が村を守ってくれる侍を探すところです。

百姓たちを散々罵倒し馬鹿にしていた(憎々しげな)人足が、決断を渋る(このミッションのリーダーになる)勘兵衛に、実は胸の内に秘めていた彼らの苦しい境遇への共感を爆発させるように怒りの言葉をぶつける場面です。

彼が激情を迸らせることによって勘兵衛は決断するわけですが、それは観客も同じ。この説得力が素晴らしい。理屈を台詞で並べて説明するのではなく、一連の芝居によって観る者を納得させます。

この侍探しの序盤だけでも、語りたいことが山ほどあります。若侍の勝四郎が勘兵衛に惚れ込むのはわかりやすく、彼のキャラクターにもぴったりですが、対照的に、侍を名乗る無頼漢の菊千代の場合は、それを表現する場面がありません。これは当然です。実は百姓の生まれの菊千代には、それを表現する言葉もなければ作法も身につけていないからです。それを表現する三船敏郎の凄さ。

勘兵衛は「自分は負け戦ばかり戦ってきた」と自嘲して言いますが、集まった七人の侍は、実は全員が(その時点では)負けた者です。勝者の側にいれば、浪人をしていないのですから。

その七人の侍が、名誉も出世も金銭的報酬もない野武士との戦いに臨むのです。