『鹿の王』感想①

「飢えは戦争の合法的な武器であり、われわれはそれを叛徒に対して用いることを躊躇しない。」

フレデリック・フォーサイスが『ビアフラ物語』で記している、ナイジェリアの政府高官の言葉です。

上橋菜穂子の『鹿の王』では、ある王国を舞台に、被征服民族の一部の集団が“病(やまい)”を利用した反乱を企図します。意図的に病気を蔓延させて、征服民族を自分たちの土地から追い出そうというわけです。

この二つに共通するのは、人間を体の中から壊そうとすることです。それはおぞましく、どのような理由、言い訳を並べようと受け入れられるものではありません。

自分が理想や高邁な目的の実現のために自分の命を捨てて惜しくないのだから、同じように他人の命を軽く扱っても構わないという理屈を、わたしは決して支持しません。

病を扱う作品ですので、それに立ち向かう人たちの中に医術師がいます。さらに、その医術の世界にも、病を病として受け入れて心穏やかに生きることを目的とする集団、積極的に治療して治すことを追い求める集団と派閥が存在します。

しかし、後者の集団に属する、この物語の主人公に一人の医術師は、この世界から病を根絶することは出来ないと理解しています。ただ、その実現不可能なゴールに向かって努力すること、自分たちの世代では無理でも将来の世代がさらなる知見にたどり着けることを信じて努力することの大切さを説きます。

両者は、似て非なるものであると同時に、非ながら似たものなのです。

そう、人は病と共生するしかないのです。これは、現実の世界で価値観の異なる人たち、立場を異にする人たちとの関係と同じです。

もう一人の主人公は、かつて妻と息子を病で失くし、病に罹る者と罹らぬ者がいるのは何故か、病に罹って助かる者と死ぬ者がいるのは何故かと問います。

それを神の意思であり、人間の関知するものではないというのは、人間には受け入れがたい理解でしょう。

その、人間が制御下に置くことの出来ない病は、彼ら彼女らをどこに連れていくのか。

物語の最後、理屈やしがらみよりも大切なものを知った人たちが示してくれる希望は、人間賛歌と呼ぶに相応しい感動を呼びます。

鹿の王 1 (角川文庫)

鹿の王 1 (角川文庫)

鹿の王 2 (角川文庫)

鹿の王 2 (角川文庫)