ないということ

先日、ボクシングジムでディフェンスの練習をしていたとき、追い込まれて連打を受ける状態になってしまったら、どのように対処したら良いか訊いたところ、「そういう状態になったのは自分が悪いのであって、まず考えるべきは、そうならないようにすること」ということでした。

もちろん、その不利な状態から脱出する動きについては教わりましたが、根本的な発想という点で深く頷きました。

政治、特に国際政治において、この考え方は大切ではないでしょうか。

危機に陥ったときの対処を想定するのは重要にして不可欠です。それと同時に、その危機に陥らないための努力も同じだけ必要です。

吉田茂は、防衛大学校の第一回卒業式で語りました。

「君たちは自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。言葉を換えれば、君たちが日陰者であるときの方が、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい」

ある(有る・在る)ことははっきりしていて、それを肯定するにしろ否定するにしろ、評価するのは簡単です。逆に、ないことを評価するには想像力が必要で、そもそも、評価するという発想が浮かびにくいものです。

それを軽視しては、政治は行えません。しかし、それを政治家だけに求めるのは有権者の怠慢です。私たちがきちんと見極め、あるときは褒め、あるときは批判しなければ、政治家は政治家として成長しません。つまり、日本の政治が成熟しません。

すべては私たち自身の問題です。