傲慢と媚び
今日の読売新聞の朝刊を開いて、不気味なものを感じました。
「衆院選の『1票の格差』を巡る16件の行政訴訟で、各高裁は14件の『違憲』判決を出している。中には『選挙無効』という行き過ぎた判断もあったが、与野党は『違憲』を重く受け止めねばならない。」(社説から一部引用)
マスコミは、「選挙無効」の判決が出た当初は、司法(という権力)に迎合するように、「正義はここにあり」とばかりに、その言葉を繰り返して大騒ぎで国会の無為を糾弾していました。
それが別のニュースに追いやられてトップで扱われなくなったら、今度は国会(という権力)に阿って、自分たちが振りかざしていたことなど忘れたかのように「選挙無効」という言葉を「行き過ぎた判断」と批判しています。
司法に媚びて国会を批判し、国会に媚びて司法を批判する。
そもそも、高裁の判断を批評するにおいて、「行き過ぎた」という表現は報道機関には相応しくないのではないでしょうか。
第一に、あからさまな“上から目線”が嫌らしい。何様のつもりか、第四の権力は三権分立のさらに上位に位置するものではありません。
第二に、「行き過ぎた」というのは、あくまでも個人的な感慨のレベルの言葉であり、表現です。これを新聞紙面で、しかも社説で使うことには違和感を覚えます。
しかも、この社説は無記名で、どこの誰が書いたのかわからないようになっています。
何年も前から、辺見庸は「具体的な顔を持たない、鵺のような全体主義」という表現を使っています。その一端を垣間見た思いです。
何とも薄気味悪い記事でした。