『スケアクロウ』

ミステリーには、読者に対してフェアであることが求められます。最後の謎解きの段になって、それまで読者に提示されなかった事実が出てきたり、物語の最後になって登場した人物が犯人だったりしては、「では、そこまでのストーリーは何だったのか」ということになります。

マイクル・コナリーの『スケアクロウ』では、主人公の新聞記者、ジャック・マカヴォイの一人称で語られる本筋の間に、殺人事件の犯人のパートが配されています。つまり、読者は早々に犯人の正体を知ってしまうのです。

これを、スリリングな展開に水を差すと見る向きもあるでしょうが、ようやく物語の後半になって、ジャックが真相に近づいてから彼の前に現れたのでは、その男以外に犯人はあり得ず、また、それを覆して意外な真犯人を登場させても作為が目立って興ざめしてしまいます。

私は、この作品のテーマ、著者が描きたかったことを考えたとき、この二つの視点のパートが混在する作劇は当然の選択肢だったと思います。

では、この『スケアクロウ』の主題は何だったのでしょうか。それは「主人公のジャック・マカヴォイが属するロサンゼルスタイムズと、それに代表される新聞業界を描くこと」です。

それに対比される存在として、インターネットの中で縦横無尽に策略を尽くす敵が配され、その言動が物語の序盤から描かれたのです。

物語の冒頭で、ジャックは解雇を通告されます。その新聞社(の編集部)を舞台としたストーリーが、殺人犯を追う本筋と遜色ない密度、分量で描かれ、そのために事件があったとさえ思えます。

権力を監視し、その不正を糾す“社会の木鐸”を自任する新聞と、サイバースペースで敵の攻撃からデータを守る案山子(スケアクロウ)。この皮肉な対比に、著者の硬骨漢と呼ぶべき姿が窺えます。

その社会性を内に秘めて、ページを繰る手を止めさせない魅力的なエンターテインメント小説です。

スケアクロウ(上) (講談社文庫)

スケアクロウ(上) (講談社文庫)