応援するということ
ここ数日の、shingol氏の「別冊・プロレス昭和異人伝」の記事を拝読して、応援するとは如何なることを指すのか考えさせられました。
応援しているとき、同時に応援されている。その分量を比較することはナンセンスですが、敢えて言えば、shingol氏は受け取った側です。
選手たちが、shingol氏に「頑張れ」とメッセージを発したわけではありません。それでも、氏の中で爆発的な化学反応が起きたであろうことは想像に難くありません。
言葉にするのは野暮ですが、選手たちは何をしたのでしょうか。ただ、自分にできる精一杯のことをしただけです。
この東日本大震災において、“絆”や“応援”という言葉が巷に溢れました。「頑張れ」という言葉の是非も問われました。
声高に叫ばずとも、様々な想いを胸に秘めて日々を誠実に生きる中で、ほんの少し零れ落ちるものがあれば良い。なくても良い。
そんなことを考えている、迎え盆の八月十三日。