恐怖を克服する

夢枕獏の小説『餓狼伝』は、空手家の主人公、丹波文七の闘いを描いています。

その最初期のエピソード。無名の若手プロレスラー、梶原に敗れた文七は修行を積み雪辱します。その死闘の後、梶原は言います。「丹波、オレはお前が怖かった」と。それは文七も同じ。彼の中から、勝ったことでは拭い去ることができなかった憑き物が、その梶原のひと言で剥がれ落ちました。

これは最近のエピソード。試合場で出番を迎えた文七は心の中で呟きます。大略「今、地震や火事といった突発事が起きれば、自分は逃げ出したという負い目を持つことなく、試合に臨む恐怖から解放される」と。

昨日の「井岡一翔VS八重樫東」の世界ダブルタイトルマッチで、視界をふさがれた八重樫にドクターチェックが入るたびに「試合を止めてくれ」と願ったことを、井岡が吐露しています。試合後のインタビューでも、八重樫と戦うことに恐怖を感じていたことを素直に言葉にしています。

ボクシングファミリーの一員であるエリートの井岡と、這い上がった苦労人の八重樫。見る側にすればわかりやすい構図です。しかし、リングで向かい合った二人には、それらは何の意味もなかったと思います。

恐怖を克服するのは勇気。勇気を生むのは自信。そして、自信の源は「自分はこれだけのことをしてきた」という手応えです。血の滲む練習で培ったものがすべて。それ以外のものは何の助けにもなりません。どちらにとっても、相手は世界チャンピオン。楽に勝てる相手ではありません。

その中で、採点は僅差でも、試合の主導権を握っていたのは井岡でした。井岡がいて、八重樫がいる。決して、その逆ではありませんでした。

「ボクシング界を背負って戦う覚悟」を表明した井岡も、視界を奪われながら闘志を前面に出して奮闘した八重樫も、ともに見事。手垢のついた表現ですが、この試合に敗者はいません。勝負事である以上、勝ち負けの結果が出ることは避けられませんが、それがプラスアルファに過ぎなくなるほど、二人は立派でした。