自覚する

六歳未満の子供からの、脳死判定をうけての臓器移植。その報道を見聞きして、やるせない気持ちでいっぱいです。

公表された両親のコメントを読んで、胸塞がれる想いになる一方、疑問を持ちました。想像を絶する葛藤と苦しみの中、コメントを世に発表したいと自ら望んだのだろうかと。それを唆した人がいるのではないだろうかと。

社会的に意義深いことでしょう。画期的なことでしょう。

しかし、個人の内面にずかずかと踏み込んで、それを美談にすることは、亡くなった(あえて、こう言います)子供と、その両親を愚弄することです。

両親のコメントを読んで、涙が出ました。どんな言葉も、そこに連ねられた言葉すらも空疎に感じるほどの哀しみに哭きました。

あれは、世に向けてのものではありません。自分たちを納得させるための、精一杯の叫びです。そして、自分たちの子供の身に起きたことを、そのすべてを自分たちの責任として自らを断罪する懺悔です。

親の愛とは、これほどまでに深いのか。

これ以上の情緒的な報道は必要ないでしょう。ただ客観的な事実の積み重ねに徹するべきです。

私は、この出来事を通して知りました。この世の中は、私以外の人の善意、忍耐、葛藤、苦しみ、献身によって成り立っているのだということを。私は、それを知ろうともせず、ただ受け取ってきただけだということを。

何という愚か者。

何も言えません。「どうか……」と呟くものの、その先が続きません。でも、「どうか、どうか……」