『大地の牙』

船戸与一は、“現代史と同伴する”ことを作家としての姿勢にしています。“満州国演義”シリーズは、過去を描いていながら、まさしく“現代史と同伴”しています。

第一の理由は、時間と場所の二点で現代の日本と密接に繋がっているから。第二の理由は、日本人は相も変わらず同じ事を繰り返しているから。

山田風太郎の『明治断頭台』は連作短編で、その最終話のタイトルは「正義の政府はあり得るか」です。この問いは、問いを発した時点で既に答えを内包しています。言い方を変えるなら、問いが即ち答えです。

“正義の政府”を目指し、“正義の戦争”に邁進する人々。自らの正義を振りかざし、空虚な言葉で着飾ることで、それを正当化しようとする人々。そして、その裏側にべったりと張り付いた言い訳。

満州国演義”シリーズは、視点を受け持つのが作者が創造した四兄弟で、歴史的な出来事は、すべて彼らが伝え聞いたものとして語られます。しかし、そうでありながら、このシリーズは冒険小説的な面白さを追求することはなく、やはり歴史小説に分類されると思います。

逢坂剛は、船戸与一の『猛き箱舟』の文庫解説で「人は生涯に何度か、頭をがつんとやられたような本に巡り会う」と書いています。私にとって、この“満州国演義”シリーズは“頭をガツンとやられる”本です。

満州国演義 (6) 大地の牙

満州国演義 (6) 大地の牙

そして、この感覚は、媒体は違えど、NHKの「映像の世紀」を視た時と似ています。