個人的団塊の世代論

私は、世代論が好きではありません。そこから零れ落ちるものが多すぎるからです。しかし、“あらゆる法則には例外があるという法則”があるように、たった一つだけ例外があります。それが“団塊の世代”です。

団塊の世代のように、具体性を持って名付けられた世代は他にありません。学生運動の後の“しらけ世代”などもありますが、それらはあくまでも雰囲気を捉えただけで、抽象的なものです。

団塊の世代と名付けられることにより、この国の現代史において何がしかの役割を果たしたと鼻高々でいるなら、それは間違いです。奇跡とまでいわれた経済復興を成し遂げたと得意気になるなら、その結果としての現在に恥じ入るべきです。

ある対象を、それだけを抜き出して論ずることはナンセンスです。すべては繋がり、継続し、継承されます。様々な分野におけるこの国の現在の軋みが生成された過程において、団塊の世代は大きな位置を占めています。その自覚があるのか。

今、未熟な大人による悲しい事件が多く報道されています。彼ら彼女らは、団塊の世代の子供です。人を育てられずに、何をしたと胸を張れるのか。

矛盾するようですが、私は、その人が団塊の世代に属するからといって、それだけで否定する気は毛頭ありません。一対一。お互いにそこで勝負ですから。魅力的な人がたくさんいることも承知しています。(これも、世代論が好きではない理由の一つです)

それでも、このような記事を書いたのには理由があります。

一つは、最近の民主党のあまりと言えばあまりの体たらくぶり。与党時代の自民党と、やっていることが変りません。寧ろ、寄り合い所帯のせいで露骨です。私たちはこの程度の政治家しか持ち得ないのかと暗澹たる気持ちです。

一つは、しばらく前に読売新聞に掲載された、団塊の世代の名付け親、堺屋太一の掌編小説です。これは、十〜二十年後の未来を舞台に、団塊の世代の老人が日本の経済力も含めた没落を嘆き、自分が若者だった頃を自慢する話です。

これを読んだ時、現在を懸命に生きる者への愚弄だと感じました。冒涜だと思いました。正しく立派だった自分たちと、情けない下の世代という、幼稚な二元論。自分たちの負の側面を省みることのない、そもそもそのようなものがあると考えもしない傲慢。

このようなことを書きましたが、私は犯人探しをして自分を正当化する気はありません。自分がやるべきこと、やれることをするだけです。謙虚に、誠実に、ほんの少しだけ自負を持って。