握手をしよう2

道具は道具でしかありません。それを使うことによって、初めて意味や意義が生まれます。日本には付喪神(つくもがみ)という考え方があります。道具を大切に、心を込めて使うことで、そこに霊が宿るというものです。

昨日、勤務先の上司がブログとツイッターについて、「パソコンのモニター越しに人の繋がりを感じるなんてどうかしている。オレに言わせれば、職場の仲間や取引先の人たちと一緒に酒を飲んだりすることで、本当の人間関係ができるんだ」と吐き捨てるように語っていました。

ここで質問。私が困った時、この上司や先輩、同僚は、身銭をきって私を助けてくれるでしょうか。自分たちに及ぶマイナスを莞爾と受け入れてくれるでしょうか。考えるまでもなく、答えは“否”です。

ほとんどの会社組織に当て嵌まると想像しますが、定年退職した人たちが、元の職場にちょこちょこ遊びに来ることはないでしょう。一緒に働いた人たちと友達付き合いを続けることはないでしょう。

道具は、必要性を感じる人が使えば、それで良いのです。感じない人は、使わなければ良いのです。無くても支障が無いのですから。わざわざ目の敵にしてわずらわされるなんてナンセンス、それは道具に振り回されているのと同義です。

職場を主とした人間関係も、ネット上の人間関係も、大差ありません。すべては私(あなた)の認識次第です。

私は、私が書いたものに目を通してくれる“あなた”と握手をしたい。掌は“たなごころ”とも読みます。その心が伝わるように、書いては削除、書いては手直しして再アップ、というどたばたを繰り返しています。