握手をしよう

キューバフィデル・カストロ前議長が、久し振りに公の場に姿を現し演説をした、との報道がありました。

私が好きな作家、故森瑤子がエッセイの中で、サイン会やその他、読者と握手をする機会が多くあるが、ほとんどの人が、握手の形にした手を添えるだけで、自分(森瑤子)の手をしっかりと握ってこない、と書いていました。それは握手ではないと。

カストロの話。まだ体調を崩す前、カストロが日本を訪問したニュースをテレビで見ました。迎えたのは、村山富一首相(当時)でした。総理官邸だったでしょうか。村山総理のもとに歩み寄るカストロ。そして、握手。

外交の場でよく見る光景です。がっちりと握り合った手を、力強く何度も上下にふり、空いた左手は相手の右肘辺りや右肩に添える。あるいは両手で相手の手を包み込むように握る。そうしている間、相手の目を見て、自分がいかに“あなたを歓迎しているか”“あなたを大切な友人と思っているか”を互いに語りかけあいます。しばらくそうしてから、ようやく体を居並ぶ報道陣に向け、政治家としての(作った)笑顔を写真に撮らせます。

しかし……。村山総理は、カストロの手を握った次の瞬間、カストロに話しかけることもなく、すぐに体をカメラの列に向けました。その顔に張り付いた笑顔は、握手をする前からずっと同じまま。

私はこの場面をテレビで見た時、カストロと、彼が代表しているすべてのキューバ国民に、心の中で謝りました。

自社連立という、数合わせの結果として総理大臣の椅子に座ったに過ぎない村山。それに対してカストロは、毀誉褒貶はあるにせよ、間違いなく世界史にその名を残すであろう人物です。

世に名を知られていることが立派なのではありません。名も無き人の積み重ねが世界を作り、動かしています。卑近な例を挙げれば、ボクシングジムに通う資格があるのはプロを目指す人だけ、などということはありません。多くの人が自分なりの目標を持って身体を動かす、そのアマチュアの裾野があって、初めてプロスポーツは成り立ちます。しかし、プロを目指す人、プロとして闘う人の厳しさに対する畏敬の念はあってしかるべきです。

この話、続きます。