官能性と仏教的なものの所在

村松:『暁の寺』でジン・ジャンは蛇に腿を噛まれて死ぬわけだけど、孔雀明王経ではあれは指を噛まれるんだよ。腿にしたのは官能性をあらわそうとしたのだろう。

佐伯:そう、しかしあの小説では官能性はあんまり感じないんだ。ジン・ジャンは作中人物としては影が薄いと思う。

村松:認識者の眼のほうが拡がっていてね。

佐伯:ただ官能のシンボルとしてそこに置かれてあるという感じで……。その点で、三島さんは官能性というものに非常にあこがれた人だし、手に入れたいとずっと願ってたんだろうけど、結局は認識者の側、見る側でつかまえる官能性で荷風が捉えた、あるいは捉えようとした官能性とは大変似た質のものだったという気がする。(中略)三島さんの(仏教とインドで繋がる)ヒンズー教に対する共感や関心は、どうも(官能性という)ないものに対するあこがれということが強かったといわざるを得ないのです。その点では第二巻の『奔馬』で神道神秘主義的うけひが出てくるけど、むしろ神道神秘主義のほうに文学的リアリティがあるように思う。この小説全体としては、仏教は非常に知的に、理論的な面で捉えられて、いろいろ嵌め込まれ、論ぜられているけれども、仏教的な輪廻というか、仏教的な時間の流れ、或いは仏教的な芸術認識がずっと流れ出すというものとはずいぶん違うように思う。

(中略)

佐伯:こだわるようだけど、あの『天人五衰』の結末のしいんとした静謐で、虚無的な時間の流れみたいなものね。あれは仏教的という感じがあまりしない。仏教的な本当の厚い時間の流れ、人間はその中のケシ粒みたいなものかも知れないところの濃厚な時間の流れがあって、その中のというんじゃなくて、自分の持っている虚無感と宇宙とが一体になって融け合って、宇宙の実体感もその中であるかないかわからないというふうな虚無感みたいな気がするね。そういう点で、とっても日本的な感覚だし、日本人三島の生地みたいなものがはっきり出たという気がする。