認識者と『暁の寺』の問題

村松:ところで今の話とつながってくるんだけど、第一巻、第二巻と読んでくると、これは安定した二つの小説だと思う。ところが『暁の寺』から急速に変るでしょう。

佐伯:それが非常に問題だ。あそこへくると俄然本多という人物が正面に押し出されてくる。つまり本多という明察派というか、傍観者、これは第一巻からずっとワキ役のかたちで出てくる。第三巻でも構成上はタイの王女がヒロインだが、それ以上に本多の見ている眼というふうなものが、ぐうっと中央にせり出してきた感じでね。

村松:そうなんだ。見るひとは本多だけじゃない。『奔馬』の主人公の恋人の槙子、彼女が第三巻ではやはり見る女になって登場するでしょう。自分の弟子と男との寝ている場面を目の前で見ている。それをまた本多が隣室から覗いている。壁の穴から覗いている本多の眼と槙子の眼とがぶつかる場面がある。『暁の寺』第二部は眼の小説だね。だからその認識者が、いかにして自分の存在を意味づけるかということがこんどは大きな主題となってくる。

佐伯:その点では荷風の老境を先取りしたような小説になっちゃってね。認識者、明晰な眼の人三島というものがやっぱりあの人の本質だということがはしなくも出てきたというふうにその頃ぼくは書いたことがある。

村松:なぜ三島由紀夫の中の認識者の部分が、第三巻以降急激に表に出てきたか。どうも私小説的批評になるけれど、これは三島由紀夫が「楯の会」に打ち込んでいったという、もう一つの事実の過程とパラレルなものに感じられてしかたがない。『春の雪』『奔馬』ではまだ三島さんはそれほど政治的な実際行動をやってないんですよ。

佐伯:ぼくは当時そのことはまったく考えに入れてなかったから、ちょうどそれを逆に受け取ってね。彼の行動は文学にとっての剰余部分みたいなもので、むしろそれによって三島さんの本質的な部分がくっきり出てきたわけで、ここに本領がある、現実行動の部分はプラス・アルファだかなんだかわからないけれど、とにかく補償的な部分だと。それだからあの事件が起って、ぼくの考えていたことが逆だったのかなあと……。

村松:しかしそれは表と裏の関係だね。

佐伯:まあそうなんだ。

村松:第三巻のジン・ジャンについては、何べんか読み返してみたんだけど、どうもよくわからない部分があってね。(中略)(最後に)どれが本物の転生の女かよくわからなくなる。これはわざと、少しわかりにくいようにしたのだろうけれど……。

佐伯:ぼくは、あるいは深読みかもしれないけど、転生という主題を作者が本当に信じたか、あるいは読者に少なくとも信ぜしめ得るかどうかという問題ね。それについての三島的な計算なり、先見なりがだんだん働いて、三巻になって大真面目に転生の主題をぐうっと押していくということに対する一種のためらいや疑い、あるいはそれに対する用意みたいなものが、いまいったような、ぼかす形にだんだんなっていって、それが最後の『天人五衰』の主人公の偽物性というところに繋がっていくんじゃないかしら。

村松:それが正しいのだろうと思う。だから三巻、四巻では三つの黒子の話は続けてゆくが、だんだんわかりにくくしてゆく。そういう意図があったことは事実だね。

佐伯:そういう二重性はずっとあるわね。二重性というと総題の<豊饒の海>にしてからが、月の海だから豊饒だけど、同時に月の不毛性ということがからませてあるわけで。