三島文体の宿命

村松:第一巻が出た時、文章が今迄と違って、非常にふくよかだなという気がしたな。目の前に在るものを説明し尽くさなければ気がすまないというあの基本姿勢は変らないんだけれど。

佐伯:初期はアフォリズムで断定したり、名文句、警句をひょいひょいと出す癖がすいぶんあったでしょう。それが『春の雪』ではほとんど消えている。しかしやはり三島さんの文体は根本的には修辞的(レトリカル)な文体ですね。ザッハリッヒなものを追っかけていくというよりは。そういう性格は変ってないと思います。

村松:それは変らない。三島文学の基本だね。『太陽と鉄』の中でもいっているけれど、ザッハリッヒなものを追っかけると、事実にひきまわされて文学の独立性が失われる。そういう考え方でしょう。文学の純粋性を守るためには、ザツヘは拒絶する。そのかわり、ザッハリッヒなものは行動で……という例の文武両道の論へゆく。

佐伯:その点では、ちょっと大胆な意見かもしれないけど、ポーとの類似を思わずにはいられない。ザッハリッヒなものに寄りかからないで、自分の力でもって(文学者の場合は言葉ということになるわけだけれど)人工楽園をつくり上げるというふうなことは両方に一致しているわけでしょう。非常に明晰で、分析的な理性の持主で、明晰すぎるところも三島さんに通ずると思うけれども、そういうタイプの人が一方で言葉を駆使して、宇宙を再構成し、壮大な宇宙論みたいなものを持ち込まなきゃ身がもてないようなところがあるんじゃないか。

村松:ああそうか。……文体については、巻毎に文体をいろいろ変えるということも考えていたわけで、『春の雪』ではたおやめぶりの文章、『奔馬』ではますらおぶりの文章、『暁の寺』では色彩感豊かな文章を書こうとした。そこまでしか彼自身はいってないけれども、次の『天人五衰』は、抽象的な、非常に観念色の濃い文章になっているね。

佐伯:やせた文章になってね。初期のアフォリズムみたいなものさえも頻繁に出てきて……。だからぼくはいまだにあれには疑問が残るんだけれど。

村松:たとえば『天人五衰』の冒頭に海の場面がある。海は『春の雪』にも『奔馬』にも出てくるんだけど、その書きかたが、『春の雪』では非常に豊かな、やわらかい海だし、『奔馬』は情熱の海でしょう。それが『天人五衰』の冒頭の海では、灰色で、しかも悪とか形而上学とかいう言葉がいろいろ出てくる。非常に観念の色を濃く含んだ海で、そういう書き分けの努力も一応意識的にしている。