興味の持続

格闘技において、対戦カードが早い段階で決まるということは、選手にとって重要です。その対戦相手を研究し、その対戦相手に勝つための練習をする時間を多く取ることができます。

そして、それは同時に観客にとっても重要です。雑誌、ネット、友人との会話。その選手の経歴を知り、特徴を知り、自分なりにその試合の見どころを自分の中に練り上げるように作り、何がしかの自己投影をする。そうして目の前に展開される攻防は、もう即物的な強い弱いだけのものではなくなります。

いま現在、この心の中での成熟という側面が軽視されているように思えます。卑近な例を挙げれば、一生懸命汗を流した後のビールは最高に美味いものですが、汗をかくことを考えず、ビールの味にだけ拘泥するようなものです。ビールが美味くないのは、果たしてそのビールの味だけの問題でしょうか。

それは主催者側にも言えます。かつてPRIDEにおいて、その大会の放送の最後には、必ず次の大会の宣伝がありました。ヴァンダレイ・シウバVSクイントン“ランペイジ”ジャクソンのようにリング上でリアルな遺恨騒動があり、既に対戦が決まっている場合もあれば、カードは決まっていないときには各選手の今後の展望について触れるなど、そこには“継続”という面がありました。当然ながら次の大会の日程は決まっており、「よし、次も観よう」という気にさせてくれました。

いつ開催されるのかわからない(印象が薄く、記憶に残らない)、誰と誰が闘うのかわからない、DREAMに至っては、リングとケージのどちらを使用するかという、自己のアイデンティティすら規定できない。これで興味を持ち続けてくれと言われても、それは主催者の観る側に対する要望として、過ぎたものではないでしょうか。

現在UFCが好評を博している理由のひとつが、この“興味の持続”と、前の記事で書いた“物語性”の高度な融合だというのが、私の見方です。

選手が「頑張っている」「一生懸命やっている」と言っても、その言葉には何の力もありません。頑張って当然、一生懸命やって当然です。金を取るプロなのですから。

その拳に、その蹴りに、そのタックルに、その関節技に、その絞め技に。選手の想いを見たい。それはそのまま、自分を見ることだから、まだ見ぬ世界を見ることだから。