同情
三島由紀夫の書いたものの中で、相変わらず曖昧な記憶をもとに書いていますので正確ではありませんが、このような文章を読んだことがあります。
“私は他人に同情されるは嫌だし、逆に同情するのも嫌だ。”
後半の“(他人に)同情するのも嫌だ”というのは、実に厳しい生き方です。
他人に対する同情は、容易に“憐憫”に取って代わられます。言い換えれば、相手を自分よりも下に見る、上から目線です。それはもう、対等な人間関係ではありません。
完璧な人間などいません。互いの不完全さを許容しあうことで社会は成り立っています。その中で、“他人に同情しない”という生き方は、裏を返せば“他人の同情を受け入れない”ということであり、あまりにも苛烈です。
三島が否定し、それでも縛られ続けた(と私は思っています)太宰治の『人間失格』の本編は、「恥の多い生涯を送って来ました。」という一文から始まります。
生きるというのは、他者とともに生きるというのは、生物学的に単に呼吸をしているということではありません。「難しいよね」と呟くのも自己憐憫なら、本当に難しいものです。
三島は強かったのか、弱かったのか。そんな単純な二元論を許さない、あの三島の自決は、実は彼のどの作品よりも“文学作品”だったのかもしれません。その想像は、“小説家・三島由紀夫”の否定すら含みます。恐ろしい課題です。