同情しない

承前。

では、“同情しない”とは如何なる姿勢を指すのでしょうか。

他人の未熟さを、至らなさを許容しない狭隘な態度でしょうか。考えるまでもなく、答えは“否”です。もしも完璧な人間だけが存在する世の中なら、文学も芸術も存在する根源的な理由がなくなってしまいます。

では、“足るを知る”という諦念でしょうか。置かれている状況や、抱えた背景は人それぞれであるとして、あらゆる結果を無条件に受け入れることでしょうか。やはり、否。この態度は“同情”です。

三島由紀夫の“豊饒の海”四部作において、唯識論が扱われています。第四巻『天人五衰』の最後の場面が印象的です。恥ずかしながら、私なりの拙い解釈を披露するなら、認識=存在ということです。目の前にグラスがあるとあなたが認識することで、グラスは存在するのです。あなたは、「あるものはある」という以外の言葉で、そこにグラスがあると証明できるでしょうか。言葉を変えれば、あなたが知らないことは、あなたにとって存在しないということです。

世界は己の認識の結果でしかない。なら、“同情しない”という姿勢はあくまでも当人の内側に留まって、態度として外側に出ないということでしょうか。他人との関係性に現れないものなのでしょうか。

三島由紀夫に、『尚武のこころ』という対談集があります。その中に鶴田浩二との対談があり、最期にこんな文章が載せられています。

“三島邸辞去のとき、門前の三島夫妻は、鶴田氏の車が見えなくなるまで、雨の中に立ちつくして見送った。
鶴田浩二は、車のなかで夫人につくづく述懐した。
「だから俺はたまらないんだ。こうしてまで、俺を見送ってくれる。あんなキチンとした日本人はだんだんいなくなっちゃう。」”

礼儀を重んじる心は、他者に対する謙虚な感謝の表れです。

考えれば考えるほど、わからなくなります。ただ、自分にとって最も身近な人間、即ち自分に同情しないことがそもそもの根本だろうとは想像できます。自分が、こうありたいと思う自分であるか。もしもそうでないならば、他人に文句を言っているひまはありません。