『涼宮ハルヒの消失』(加筆訂正)

涼宮ハルヒの憂鬱』とそのシリーズを読んだのは、読売新聞で「萌えイラストの表紙に怯まずに手に取ってほしい傑作」との評を目にしたのがきっかけでした。そして、持病の「無性に青春ものが読みたくなる発作」が起き、まとめ買いをしました。

ライトノベル”と呼ばれる作品を、そうと意識して初めて読みました。“活字で読む漫画”とも言われるジャンルですが、私には上手く定義することができませんでした。第一巻を読んだ時点で、面白いのかつまらないのか判断できず、二巻、三巻と読み進めましたが、「買った以上は読まなければ」という状態でした。その中で、第四巻の『涼宮ハルヒの消失』だけは掛け値なしの傑作だと満足できました。(そして、結局、『涼宮ハルヒの消失』も含めて、すべて知人の息子さんに譲ってしまいました)

その『涼宮ハルヒの消失』が映画化され、恥ずかしながら映画館に足を運びました。

傑作でした。作り手の「自分たちは素晴らしい作品を作っているんだ」という誇りが画面から伝わってきました。

以下、未読、未見の方にはさっぱりでしょうが。

最も印象的だったのは、傍若無人なヒロインの涼宮ハルヒに振り回される愉快な非日常な日常に、「あいつもしょうがないヤツだ」と付き合っていたつもりのキョンが喪失感に打ちのめされて、自分の本当の気持ちに気付き、「おれは、ハルヒに会いたかった」と独白する場面。

そのキョンが、自分の意志で選択した世界。それはもう「しょうがない」と付き合うものではなくなりました。この『涼宮ハルヒの消失』は、キョンの成長を描いたビルドゥングスロマンでもあります。

そして、長門有希。彼女の強さと弱さ、その可憐さに胸が締め付けられました。物語の終盤、朝比奈みくる異世界長門有希を指して「今の彼女はただの女の子」と言います。それは、普段は“ただの女の子”ではない彼女の痛ましさの別の表現です。最後、病院の屋上で長門に宣言したキョンの言葉は、そこまで物語を見届けた観客の気持ちを代弁したものでした。このカタルシスは、一本の映画として素晴らしいものでした。

私は年齢的に女の子のキャラクターに憧れる(萌える)ことも、世界を分析、解釈するキョンのモノローグに知的好奇心を刺激されることもありません。(このシリーズが中高生男子にウケた要素はこの二つだと思っています)

それでも、この『涼宮ハルヒの消失』は、脚本、演出、技術、演技のすべてが有機的に作用しあった傑作だと断言します。年齢的にアニメを見る機会もなく、最近では『スカイ・クロラ』と『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版』しか記憶にありませんが、それらに匹敵する作品でした。