ircle連想

七年前、埴谷雄高の『死霊』を、文庫化を機に読みました。著者は「私は難しいものを書いているつもりはない」と書いていますが、とにかく難解な内容で、説明してみろと言われても、できませんと頭を下げるしかありません。筋肉を鍛えるために筋組織に強い負荷をかけるように、脳細胞に強い負荷をかけるような読書でした。数行読んでは数秒間の休憩をとる。例えるなら、水を張った洗面器に息を止めて顔をつけ、息がもつだけもたせ、我慢できなくなったら顔を上げて呼吸を整え、また顔をつけて……、といった読み方でした。大袈裟でなく、一行でも読み飛ばしたら内容が分からなくなって混乱してしまいます。そうして、文庫三冊を読むのに一ヶ月かかりました。

その『死霊』を、“興味を持って”読み通すことができた時、年齢を重ねていても自分の精神が学生時代と比べて磨り減っていないことを確認できて嬉しくなりました。

ircleのライブ観戦(そう、戦いを見ました)も私にとって、そんなエポックメイキングな出来事になりました。身体の中にまだ熾火が残っていて、これを書いている今もこみ上げるものがあります。

年齢を重ねたからこそ見えるもの、感じるものもあります。彼らと同世代であれば、また違った印象を持ったかもしれません。それでも、この年齢になって彼らの音楽に触れ、感動できたことに素直に感謝します。それは、「そんな自分が好き」という自己憐憫とは無縁の感情です。

彼らと再会できる日を楽しみにしています。