長谷川穂積のボクシング

肉体を使った芸術、それがボクシング。今夜の長谷川穂積の世界タイトルマッチを観て、その感を強くしました。

様々な格闘技がある中で、ボクシングは特に大きな制約のもとに成立しています。両の拳のみを使って攻撃し、防御し、相手を倒さなくてはなりません。

プロにはプロのレベルの難しさがあり、それは私には窺い知ることができませんが、素人に毛が生えた程度の私でも、その一端を垣間見ることはできます。通っているボクシングジムで、プロ選手とスパーリングとまでは行かない、お互いに軽く当てる程度の練習をすることがあります。その程度の動きでさえ、攻撃する時も防御する時も、不自由を感じない時はありません。

先日の内藤大助VS亀田興毅は、あれはあれで盛り上がって良かったとは思いますが、あれはまず最初に内藤と亀田のキャラクターと遺恨があり、それを受けての対決ということでした。その勝負の手段がボクシングだったというに過ぎません。翌日にジムに行ったところ、私を含めて誰もあの試合について話をしませんでした。

不自由さの中に無限の自由がある、と言ったのは狂言師野村萬斎でした。長谷川のボクシングはそれに通じるものがあります。