私の好きな作家:打海文三

大好きな作家でありながら、これほど語るのが難しい作家もいません。その作風にはアンビバレントと呼ぶべき側面があります。

「○○は喪失の悲しみを知った者の目で〜を見た」といった具合に、地の文に登場人物の心象風景を織り込むことで、まず無駄な文章を排してストーリーをきびきびと進め、そして読者に自分がその人物とシンクロしたかのような圧倒的なリアリティをもたらします。そこには行間を読んで想像するといった余地はありません。

その一方で、物語を俯瞰してトータルで見ると、“このストーリーはこうこうこういう内容で、私(作者)はこういうことを言いたいんだ”という押し付けがまったくありません。ただ登場人物がいて、エピソードがあるだけです。それをどう受け止め、どう捉えるかは読者に委ねられています。

作者についての知識を一切持たずに読んだなら、おそらく大半の人がもっと若い小説家の手によって書かれたと感じるであろう瑞々しい文章が描くのは、血と暴力と愛の物語です。それはハメットとチャンドラーが一つの作品に同時に存在する、稀有な物語です。『ハルビン・カフェ』が“大藪春彦賞”を受賞したのも故あってのことです。

打海文三の作品には多くの少年少女が登場します。作者の想いが投影されているのか、描かれる少年像にはどこかロマンチックな面があります。逆に少女たちは、これが男性作家の手によるのかと思うほど、(男にとって都合が良いという意味で)男の求める女性像とは程遠いキャラクターです。『されど修羅ゆく君は』と『愛と悔恨のカーニバル』に登場する“無敵の”姫子と、『裸者と裸者』『愚者と愚者』『覇者と覇者』のシリーズに登場する桜子と椿子の双子の姉妹にそれは顕著です。男に(特に性的なものも含めて)欲望があるのと同じように、女にも欲望がある。この単純な真実を描いていやらしくないのは、作者の誠実な眼差しと筆力があってのことです。

ハルビン・カフェ』の文庫化を機に読み始め、その時点で文庫になっている作品をすべて、また他の作品も文庫化されるのを待って順次読みました。その中で唯一の例外が『裸者と裸者』でした。文庫化を待つのか、ハードカバーの単行本で読んでしまうのか、ずいぶん長い間迷っていました。結局続編の『愚者と愚者』が出たと同時にまとめて買いました。好きな作家の新作を早く読みたいという素朴な理由とともに、もう一つ、考えていたことがありました。他の作家でも文庫化を待たずにハードカバーの単行本を買うことがありますが、その度に「『裸者と裸者』を買わないでいるのに、この本を買うというのは、自分の中の優先順位としておかしいのではないか」という葛藤がありました。

その作品は打海文三の世界観を表現する、打海文三の文体によって描かれたものであり、他人の手による映像化を拒むものです。文章によって紡がれた世界、即ち小説を読む幸せを与えてくれる、素晴らしい作家です。隆慶一郎とともに、その急逝が惜しまれてなりません。