思い出話:祖母の死

祖母は目が不自由で、私がもの心ついた時には既に、食事とトイレとお風呂以外の用で自室から出ることも無い生活を送っていました。最後の数年は完全に寝たきりになり、施設に入ることも無く、家で下の世話も含めて介護をしました。

不思議なもので、身内の死でありながら記憶がはっきりしません。あれは私が小学校五年生の時でしたか、六年生の時でしたか。季節は冬でした。担任の先生に職員室に呼ばれ、家から電話があり、今日は部活を休んで帰るようにとの伝言を聞きました。祖母の状態が悪いという話を親から聞かされてはいませんでしたし、前日まで実際にそのような様子も見られませんでしたが、すぐに祖母が死んだのだろうと直観しました。

息を切らせて帰宅してみると、玄関前に見慣れない自転車が何台も停められていました。玄関の扉は開け放されていました。そこにも見慣れないサンダルが多数。祖母の部屋に当人の姿は無く、近所のおばさん達が雑然と座っているというよりも、はっきり言ってたむろしていました。祖母の遺体は家の一番奥の座敷に移されていました。その横に座っていた母が顔を上げて私を見るなり泣き出したことは、今でもよく覚えています。

小学生の私には“人の死”というものが理解できませんでした。ほんの少しだけ涙が出ましたが、今になって言葉にするなら、「ああ、終わったんだ」という気持ちでした。

母の話を一通り聞いた後、母に頼まれて、近所の人達にお茶を入れに祖母の部屋に行きました。皆もっともらしい表情で、「人が死ぬ時は大きく息を吸って、その時は声が出るんだ」やら「死んだら便を漏らさないように肛門に詰め物をするんだ」やら話していましたが、手持ち無沙汰な様子が手に取るように伝わってきました。

誰も祖母の思い出話をしていませんでした。それを怒りと呼ぶには、私は幼すぎました。そのようなことに怒りを覚えることを知りませんでした。しかし、だからこそ、それは根源的な怒りでした。その時私の前にいた人達は全員、一度として生前祖母を訪ねてきたことがありませんでした。お見舞いも、ただのお茶飲みも。何かの用があって我が家を訪ねてきた時に、一言声を掛けることすらありませんでした。それなのに、死んだ途端にやって来て、わざとらしいこの態度。

私は知りました。他人とはこういうものだと。世間(この言い方は大嫌いです)とはこういうものだと。そして、人とはこういうものだと。

それ以降、私は他人との距離感を常に意識するようになりました。友人とも、仲が良くなることはあっても決して馴れ合うことがないように、自分を客観的に視ることを覚えました。

「上司も含めて職場の人間は皆ダメで、オレがいなけりゃ仕事が回らないんだ」と気炎を上げる友人がいますが、自身を振り返って、私はそのようなことは考えません。どんなに協力して仕事をしていようと、冗談を言い合って笑おうと、職場の人間関係は金銭による繋がりに過ぎません。いくらでも取替えが可能です。そして、どんな些細なことであれ、仕事以外のことで(例えば金銭的な)負担を負うことなど、誰一人として肯んずることはないでしょう。

母によると、祖母の死から一週間程、私の様子が普段と違っていたそうです。私自身は特に憶えてはいないのですが、そういうものなのかもしれません。