縄跳び

ボクシングジムでは、まず準備体操をし、次に縄跳びをします。この縄跳び、侮ってはいけません。慣れた人は片足で交互に二回ずつ、リズムよく跳びます。もちろん私も現在はそのように跳んでいますが、通い始めた当初はそうはいきませんでした。

慣れ以前に、脚についている筋肉の量が少ないために片足で着地の衝撃を吸収することができず、ふくらはぎに激しい痛みを伴い、最初の数ヶ月は小学生のように両足跳びで三分間を凌いでいました。

やがて筋肉がつき始めると共にリズムよく軽快に跳べるようになり、二、三年経った頃でしょうか、自分がどれだけ続けて跳ぶことが出来るのかを確認しようと思い立ちました。

私が通うジムはラウンド間のインターバルを、正式な試合では一分間のそれを、練習ということで三十秒に設定しています。そこで、延々と跳び続けるのではなく、その設定に合わせて、三分跳んで三十秒休むという形で何ラウンド跳べるかに挑戦しました。

体が温まり調子が出てくるのは三ラウンドを過ぎたあたりからです。五ラウンドを過ぎると少し飽きてきます。跳ぶスピードを変えたり、飛び方を変えたり、出来る範囲で変化をつけます。十ラウンドを過ぎると、ここまでやった以上は頑張ろうと、あらためてやる気が出ます。十四ラウンドくらいから膝が痛み出します。そして、十六ラウンドを跳び終えた後のインターバル。

その時、考えてしまいました。まず一つは、十八ラウンド跳ぶと、インターバルも含めてちょうど一時間になり、区切りが良いこと。もう一つは、今回二十ラウンド跳んでしまうと、次に挑戦しようとした時に、前回(つまり今回)の記録を超えなければ意味は無く、更に体力もついているであろうことから、その時には三十ラウンドを目標にするくらいでなければいけなくなり、今回十八ラウンドで止めておけば、その次回の目標は二十ラウンドで済むこと。

こう考えると、もう駄目です。精神と肉体は二つながらにして同じもの、密接に繋がっていることを実感しました。最後の二ラウンドは疲労が表に噴出して、何とか意地で飛び終えましたが、それ以上はまったくやる気も出なければ身体も動かない状態になってしまいました。

精神論や根性論を、それ単体で肯定することも否定することもナンセンスです。精神的モチベーションと科学的、或いは論理的裏づけのあるトレーニングの融合。意識の持ち方で、そこに意味が生まれもすれば、ただ苦しいだけで終わってしまうこともあります。

継続は力なり。この言葉には、人口に膾炙しているよりももう少し深い意味があるように感じられます。