UWF

この三文字を目にすると、平常心でいられません。
この曲を耳にすると、居ても立ってもいられません。

UWFを“運動体”と読んだのは夢枕獏でした。団体ができた経緯がどうであれ、UWFは理想を持った若者の行動でした。ある理想が、目の前で現在進行形で具現化されていくドラマでした。生で体験するドキュメンタリーでした。そしてその担い手は金を持った大人ではなく、身体一つを武器としたプロレスラーたち。

私見ですが、UWFが目指したのは観る者に対する説得力でした。従来のプロレスには、新日本プロレスにはアントニオ猪木全日本プロレスにはジャイアント馬場という絶対的なエースが存在しました。UWFにも元タイガーマスクというネームバリューを持つ佐山聡がいて、リング上での戦い方や独自のルール作りも含めて中心人物ではありましたが、絶対的なエースではありませんでした。試行錯誤の中、スポーツとして位置づけるべく、UWFのシリーズはプロ野球のように総当りリーグ戦になります。その第一回の優勝者は、新日本プロレスでは実力者として認知されながら中堅に甘んじていた木戸修でした。また、UWF独自の関節技としてチキンウイング・フェイスロックやアキレス腱固め等がありましたが、私が最も印象深く感じたのは片逆えび固めでした。従来のプロレスでは試合中盤の痛め技に過ぎないこの技が、本気でやれば決め技になる。それはUWFの強烈な自己主張でした。

UWFはやがて崩壊します。それも郷愁を呼び起こす要素でしょう。青春は挫折によって終わりを告げます。

これは旧UWFあるいは第一次UWFと呼ばれる団体のことです。佐山を除く選手たちは一度古巣の新日本プロレスに戻り、その後もう一度(第二次)UWFを設立します。

今の言葉で言うなら、旧UWFベンチャーでした。自分たちと近い年齢のプロレスラーたちの生き様にファンは熱狂し、熱い視線を送りました。第二次UWFは都会の大きな会場でだけ大会を開く手法も含めてメジャーでした。そこで最も喝采を浴びたのはエースの前田日明ではなく、若手の船木誠勝でした。

「オレたち(ファン)が応援して支えるんだ」という強い想いが、後のK-1やPRIDEと決定的に違うところだと思います。挫折の思い出は甘く、そして苦く胸に残ります。

現在の総合格闘技を見て、UWFを否定することはナンセンスです。たとえ後に世界記録を更新されたとしても、その時のカール・ルイスの走りは、北島康介の泳ぎは素晴らしいものとしてその輝きが失われることはありません。