私的・船戸与一論 その七

『虹の谷の五月』で直木賞を受賞した際に読売新聞に寄せた文章を、一部抜粋。

「これまで多くの辺境での開放闘争をテーマとして書いて来た。しかし、冷戦構造崩壊を機にみずからが造りだす作品世界に奇妙な齟齬感を抱きはじめたのは否めない。

かつて、辺境で鳴り響くカラシニコフの掃射音は開放のマーチのように聞こえたものだ。ゲリラ指導者たちはもちろんクレムリンの欺瞞について熟知していたが、それはスターリニズムのなせる業だと判断し、勝利の暁には真の社会主義国家を建設できるものだと信じ込んでいたように思う。

しかし、ソ連が崩壊し、それまで隠されていた事実が白日のもとに曝されると、その種の欺瞞はレーニン以来ボルシェビズムと骨絡みであったことを知らされる。かくして一切の国家モデルは消失した。天駆けるはずだった精神はボルシェビズムの黒雲のなかでグローバリズムの泥土へと墜死せざるをえなくなる。

しかし、一歩退いて世界史的な視野に立てば、冷戦とはたった四十数年間の事象に過ぎない。世界史的に言えば、ただの異常事態だったと言えよう。にもかかわらず、わたしたちの世代はこの異常事態にあらゆる価値観を刷り込まれたのである。それから脱却するには相当骨が折れる。わたしたちは世代として冷戦からどこに復員すればいいのか? ベルリンの壁が崩れてから十年経ったが、この問題は今も継続している。

小説という表現形態を借りて起こったかもしれない歴史を書いていこうと思う。現代の叙事詩を作りあげることに専念したい。叙情は叙事の投網のあいだから零れ落ちたかけらに留まらせたいと考えている。

(現代は)得たいの知れない数値だけが我がもの顔に世界を駆け巡っている。討つべき相手は独裁者でもなければ暴力装置でもない。グローバリズムの名のもとに増殖する妖怪としての数値なのだ。

未来はまったく視えていない。現下の状況がどう進展していくのか予測もできないまま現在と向きあうことを強いられるのである。」


これは文明評論家の書く文章ではない。同時代性を持つジャーナリストの書く文章だ。「現代史と同伴する」と宣言した作家の肝の部分だ。

歴史上の出来事について、その後の時代の推移を知った上で評価するのは簡単だが、現在ただ今の出来事について、その本質を見極め想像力を働かせ、偏見や思い込みを持たずに評価し対処することの如何に難しいことか。

その困難に挑戦する真摯な姿もまた船戸与一の魅力の一つだ。

※ジャーナリストとしての船戸に興味のある方は辺見庸の対談集『屈せざる者たち』(角川文庫)を手に取ってみてください。二人のマスメディア論は読み応えがあります。