難しい現実認知

誉田哲也の『武士道ジェネレーション』を読みましたが、感想を書くにあたって困っています。

作家の「これを言っておきたい」という動機によって小説が書かれても、それは構いません。その内容を肯定するにしろ否定するにしろ、それは読者の自由です。

この物語の序盤、主人公の一人(女性です)が大学生となり、先の戦争について自分なりの意見を開陳します。そこに、いわゆる東京裁判の不当性とアメリカの戦争犯罪を糾弾して“自虐史観”という言葉が出て来た瞬間、暗澹たる気持ちになりました。

その内容は、そこいらじゅうに転がっているような陳腐なもので、きちんと関心を持って、きちんと勉強していたら、もっと違った調子のものになっていたはずです。

最初は、その稚拙な思考から出発して、至る結論はどうであれ、物語の中で経験を積んで彼女が成長するのかと思いましたが、そうではありません。

この作品で作者が熱を込めて語ることは、別にあります。それは、攻めること以上に守るとこの難しさ、大切さです。

作家は言います。守るためには力が必要。それも圧倒的で研ぎ澄まされた力が。そして、それだけでは足りず、それを制御する高い精神性が伴われなければならないと。

しかし、道具(=力)を持ったら、それを使ってみたくなるのが人間です。一例に、映画『2001年宇宙の旅』を挙げれば事足りるでしょう。

その欲望を抑え、高潔な精神性を持つのが「武士道」であるというのが作家の主張の眼目でしょう。

物語の後半、『葉隠』の有名な一節、「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」が話題になり、例えば先の戦争末期の特攻などは武士道とは違うと語られます。権力者がスローガンとして利用したのだと。

この武士道について、あるいは力についての論が、序盤の自虐史観云々と後半にある歴史認識を巡る会話と絡むことはありません。そのため、先の戦争の話が奇妙に浮いてしまい、一本の小説としての結構を著しく損なっています。

世界情勢は流動的で、“正しさ”もまた変質します。そのなかで様々な意見、考え方があって当然ですし、それを表明することは大切です。

ですから、それがどのようなものであれ、既存のシリーズの登場人物にセリフで言わせて済ませるのではなく、きちんと勉強し、一つの作品として上梓してほしかったと思います。

この不穏な時代に黙っていることは出来ない。その作家の態度は素晴らしいのですが、残念ながら太刀打ち出来なかった作品というのが、わたしの感想です。