『水底の女』

村上春樹の小説を評して、「何を言いたいのかわからない。雰囲気を味わうだけのもの」といった類の批判があります。

実は、チャンドラーも同種の批評をされています。

プロットが弱く破綻している部分がある一方で、流麗な文章と独特な言い回しや、フィリップ・マーロウに代表される人物造形の妙が際立っていて、それらを味わうもの等々。

村上春樹がチャンドラーの作品をミステリーではなく“準古典小説”と位置付けたいと考える、その背景が垣間見えるような気がします。

わたしは、船戸与一の影響でハードボイルドとチャンドラリアンの小説を分けて捉えていますので、あくまでも後者として楽しく読みました。

マーロウは観察者です。あるいは認識者です。

そして、他者の人生に、そこで起こった出来事(往々にして血生臭かったり、悲劇だったり)に優劣をつけません。

あるがままを受け止め、自身はぶれない。

それはやはり強さでしょう。

と同時に、優しさだと、いまのわたしは思います。

ただ、それを優しさだと理解出来ない人には決して伝わらないでしょう。

この一連の新訳シリーズを読むに際して、ずっと頭の片隅にあったのは、船戸与一の「優しさが強さだといったとき、ハードボイルドは死んだ」という言葉です。

その故人に、「あなたは優しい人だ」と言いたかったというのは、わたしの感傷です。

水底の女

水底の女