猪木イズム考

高田延彦ヒクソン・グレイシーが戦ったPRIDE.1から20年ということで、関連書籍の発売が続いています。何とまあ、賑やかなこと。

そのなかの一冊に『プロレスが死んだ日』というものがあります。当然ながら、「プロレスは死んでいない」という反論が出ています。

しかし、それ以前と以後で本質的な部分が変わってしまったことを指して「死んだ」と表現するなら、まさしくそのとおりでしょう。

いまと同様、それ以前もプロレスは純粋な格闘技として見られてはいませんでした。それでも多くの人たちが応援し、熱狂したのは、そこに“強さ”を感じていたからです。

そして、プロレスファンは言いました。プロレスラーは、右手に竹光を持っていても、左手には真剣を持っているのだと。

さて、いまのプロレス界を眺めて、そう思わせてくれるプロレスラーがいるでしょうか?

わたしには一人しか思いつきません。中邑真輔です。

彼だけが、その“強さ”を観客に届け得るパフォーマンスを実現しているように思えます。

その中邑とライバルだった棚橋弘至。戦いぶりやキャラクターに惑わされず、彼こそが猪木イズムの体現者だと喝破されて蒙を啓かれたことを告白します。

観客、ファンがあってこその格闘技興行です。その世界で、暗黒期とも呼ばれる時期を戦い抜いた棚橋。

彼の意識は、目の前の対戦相手だけでなく、会場に足を運んでいる観客だけでなく、テレビの前の視聴者だけでなく、その外側にいる膨大な「プロレスに興味がない人々」にも向けられていたはずです。

頑張って良い試合をすることが自分の仕事、では足りないのです。

そこで、リング上での懸命なファイト、リング外でのプロレスに対する献身的な言動とともに、自らの身に起きたトラブルすらも血肉にして、対世間でプロレスラー棚橋弘至を貫いた姿にファンは喝采を送りました。

この姿勢は、K-1MAXを牽引した魔裟斗に通じます。

もう一度言います。観客、ファンがあってこその格闘技興行です。時代とともにプロレスの姿が変わるのも当然です。ただ、そのプロレスの歴史として、あの高田延彦ヒクソン・グレイシーの戦いを、過大評価に対する反発で過小評価しては、同根の病でしょう。