『転落の街』

ある犯罪の被害者が、人生を破壊されて同じ犯罪者になる。悪と悲劇の繋がりは、その流れを遡っていけば開始地点、源にたどり着けるものなのでしょうか。

敵対者は、互いに「相手が敵意を抱いて攻撃してくるから、排除することで身を守ろうとする」のでしょう。では、そもそもの始まりを見つけて原因となった側を特定することは出来るのでしょうか。

だれにも価値があるのでなければ、だれにも価値はない。その信念のもと、もの言わぬ死者の無念の代弁者として、その決して目的地に着くことのない旅を続ける、ハリー・ボッシュ

それを遂行する刑事としての能力の衰えを意識したボッシュの心の悪戦苦闘を描いた『転落の街』は、ミステリーというよりも、彼の人生の一場面を描いた作品という趣です。

扱われる二つの事件は、それを物語るための材料に過ぎません。ですので、じりじりと真相に近づく迫力や読み応えは従来の作品に比べて希薄というのが、わたしの印象です。

その重要な要素は、(実質的に)この作品からレギュラーメンバーになったボッシュの娘の存在です。

誰かにとって善き存在でありたい。もっと直截に表現するなら、娘にとって誇れる父親でありたい、良き導き手になりたい。

その想いは、逆にボッシュの支えになります。

この二人の心の交流もまた、どちらが先でどちらが後ということはなく、それを考える必要もありません。現に在る。それだけで十分です。

『転落の街』では、いくつもの親子が登場します。その関係が事件の背景になりますし、当然ながら被害者にも親がいます。それがボッシュを揺さぶらないわけがありません。

ボッシュが好意を寄せる女性に(問題を抱えた)息子がいるのも偶然ではないでしょう。

定年を迎え、延長制度によって再雇用されている六十歳の男を評して言うのもおこがましいのですが、友人さえ持たないことを旨としてきたボッシュの、娘を得たことでの今後の更なる成長を楽しみにしています。