冷笑の先

かつて、わたしの友人は「何事であれ、その人の自己満足の問題だ」と言いました。価値観は人それぞれということです。簡単に満足するから程度が低く、満足することなく高みを目指すから偉いということはありません。

しかし、それは個人の領域で完結する場合のこと。そこを乗り越える戦略を持ったデモでなければ、あとに残るのは敗北者のヒロイズムだけというのは、わたしにも理解できる話です。

まがりなりにも民主主義を標榜して国家が運営されている以上、選挙で選ばれた人たちには、「自分たちは任されたのだ」という大義名分があります。それに対抗できる何を持ち得るのかということを試されているのが、ここ数年のなかで起きているデモだと思います。

泣き叫びながら生まれてくるのが人間です。何かを生み出そうとしたら、泣き叫びながらやるしかないでしょう。

それを冷笑的に眺めるという人が一定数いるのは自然なことであり、社会としては健康的ですらあるかもしれません。しかし、その笑みの裏側に一欠片だけも熱いモノを隠していなかったら、その言説に耳を傾ける価値はあるのでしょうか。

また、冷笑家であることは本人のパーソナリティの話です。黙っていても誰も困りません。それをわざわざ他人に披瀝する態度は、著者が批判する「デモをしたことで満足してしまう人たち」と同じ自己満足そのものです。

書かれていることには頷くことが多く、読んで良かったと思っています。ただ、いま求められているのは冷笑ではなく、その先です。

冷笑だけなら誰でも出来ます。冷笑家を自認するなら、それすらも包含したビジョンを語ってほしいと切に願います。